「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出④』
「ギャップ」
聖の家はとにかく大きかった。海外の輸入住宅だからなのか、日本の家とはスケールが違った。幅の広い玄関の扉はずっしりとしていて、厚みがあった。玄関はざっと3畳くらいはあった。中へ入ると上品な天然の椋の香りがして、無塗装の木目が美しい壁とフローリングの廊下がすぅーっと伸びていて、吹き抜けの天井を見上げると三角の屋根の形がそのまま開放的な空間を作っていた。
リビングは壁一面ガラス戸で、外は空と海だけが一面に広がっていた。
俺が初めてあの家に行った日は雲一つない快晴で、真っ青に輝く大空と、エメラルドグリーンにきらめく青い海が僕の目に飛び込んできた。
俺はリビングからの景色に見惚れていた。
けれどすぐにその部屋の調度品に違和感を覚えた。
ガラス戸の手前には巨大なソファがコの字型に置かれていて、多分10人は余裕で座れるくらいのサイズだった。黒革のいかにも高級な質感で、どこかの豪族かマフィアの一族を連想させた。
中央には見るからに豪華なロココ調のデザインが施された大きなアンティークのテーブルと、床一面に分厚いペルシャ絨毯が――金銀ブルー、ブラウンの煌びやかで複雑な模様が織り込まれた立派な絨毯が敷かれていた。
周りに置かれた動物や仏像のオブジェも含め、見るもの全てが規格外の高級品で、お世辞にも落ち着くとは言えない設えだった。
そこは誰がどう見ても、聖の部屋ではなかった。
けれど、あいつらしいといえばあいつらしい‥すべての物事に無頓着な男が暮らす部屋としては、まさにあいつらしい部屋だったんだ。
あの日俺はまだ緊張していた。
聖とはほんの数日前に会ったばかりだったし、だから聖という人間のことをまったく知らなかった。
もし俺があの家と聖の繋がりを事前にボスから聞いていたら、あの豪華絢爛な部屋のせいであいつがどんな人間なのか益々掴みにくくなることもなかった。
けれど俺はまだあの家が丸々全部聖個人の所有物だと思っていたから、見れば見るほどあいつは一体何者なんだという感情が湧き上がる一方だった。
俺はしばらくリビングの隅っこで立ち尽くしていた。
それから恐る恐る足を進めたものの、あの重量感抜群なマフィアのソファに座ることもためらわれ、大きなベルサイユ色のテーブルとソファの隙間にこそっと体を滑らせた。
分厚い絨毯はさすがのクッション性があった。俺はなるべく体重をかけないように、ちょこんと正座をしていた。その絨毯の肌触りと、見た目からは想像がつかない柔らかさにドギマギしながら、もう一度辺りを見回した。とにかくそこにある全てに馴染みがなくて、別世界に迷い込んだかのようだった。あんな芸術品のような家具や絨毯をそれまで見たこともなかったし、どうやらリビングの向こうには鉄板焼き専用のカウンターも見えていた。
そんな広すぎる落ち着かない部屋で、俺はそれを発見した。
俺が腰を下ろした反対側のソファの上に、それは無造作に置かれていた。
パステルカラーのやわらかそうな生地でできた、恐らくベビー用の――それはタオルケットだった。
いくつも描かれたかわいらしいひよこがこちらを見ていた。
その酷く浮いたアイテムに不意打ちを喰らい、再び俺の頭の中は混乱した。
これはあいつの趣味なのか、もしや小さな子供がいる家なのか、はたまた誰かの忘れ物なのか、忘れ物ならば誰の?聖の恋人は子供がいるのか?もしや人妻――?!
いずれにしてもマフィアとベルサイユとペルシャ絨毯が混在したあの空間にはもはやあってはならないような気さえして、俺は一人で困惑していた。
しばらくすると美味しそうな匂いが漂ってきて、そういえばリビングに置き去りにされていたことに気付いた。
ほどなくして目の前にパスタが一皿置かれた。
あの時俺はちょうどお腹が空いたと思っていたところだった。
あれはまさに絶妙なタイミングだったんだ。
そのことに気が付いて、俺は聖を見上げた。
聖は俺の驚いた顔にも無表情のまま、
“いらない?”
“いやいやいや、いらなくない!ちょうど今お腹減ったと思ってたとこだったからびっくりっていうかすげぇっていうか‥”
って、俺はなぜか慌てて弁解した。
聖はそれ以上何も言わなくて、俺は目の前の湯気が上がるパスタを見つめていた。
あれは今でも忘れもしない――
生姜と海苔と醤油の香ばしい香りが立ち昇る、食欲を誘うウマそうな匂いだった。
それは細かく刻んだ長ネギと生姜で炒めたパスタの上に、ほかほかの釜揚げしらすと千切りの青じそや焼きのりが山盛りに乗った和風パスタだった。
味付けはとてもシンプルで、醤油とバターと、少しガーリックの風味もあって――パスタのゆで具合から塩加減も抜群で、プリプリツルツルの触感、オイルと具材のバランスも調度よくて、いくつもの香味の旨味がいい具合に引き立て合っていて、ふわふわのしらすも加わって――あまりにも美味しくて味わうのももどかしく、あっという間に完食した。
俺は大きな声で“ウマかったぁ!”って叫んだ。
でもそこに居ると思っていた聖の姿はどこにもなくて、僕はいつの間にかまたリビングで一人ぼっちだった。
それくらいパスタに夢中だった。
俺は急に淋しくなった。
たった今食べた最高のパスタの味を‥その感動を作った本人にぶつけられないことも、ここに一人ぼっちでいることも。俺はすっかり興醒めした。
見ればあいつは俺に手作りパスタを置いて、自分はバルコニーでタバコを吸っていた。俺のことなんか放ったらかしで。
ガラス戸をピッタリ閉めて、目の前に広がる遠くの海を見つめながら。
その背中が、だけど俺にはなんだか微笑ましく見えた。
会って間もない人間に手作りパスタを振舞うことも、その感想はそっちのけで自分は外でタバコを吸っちゃうことも。もてなしたいのか帰って欲しいのか分からないけど、のっけからこの感じは逆に好感がもてると思えた。
どこか憎めないやつだな、と思ったんだ。
きっと聖にしてみれば人に手料理を出すことなんて特別でも何でもなかったんだろう。そして、その味がどれだけウマいかということも、相手の感想も。あいつはただ腹を空かせていそうな男に食べ物を出しただけ、ただそれだけだったんだ。それだけのことだから、俺がどんな食レポをしようが何も期待していなかった。
ちなみにあのふわっふわの釜揚げしらすは工場の近所の顔見知りの漁師さんからのおすそ分けだった。青じそは近くに住んでる農家さんから、焼きのりはボスの家のお中元。あの激ウマパスタは “もらいもの”で作られていた。
聖は「貢がれ体質」。そう感じた俺の直感は当たっていた。
あの場違いなタオルケットも、聞けば女の子からの“もらいもの”だった。
そして案の定、その女の子と“おそろい”だった。
あいつはいつもあのごっついソファで寝起きしていて、あのベビー用のタオルケットを掛布団代わりに使っていたんだ。
“おそろい”の“もらいもの”は他にもまだまだたくさんあった。
あいつが何も言わないのをいいことに、俺はその貢物の数々を半ばおもしろがって発掘した。
パジャマやバスローブはもちろん、ぬいぐるみみたいなスリッパや大きなクッション、ヘアバンドから手袋に耳当てまで、どれも可愛らしいフォルムやカラーで、ふわふわで、やわらかくて―――見ればすぐ分かった。
中でもパジャマの贈り物がダントツで多かった。シルクやベロアの、ハイブランドのものばかり何着も。色は白や黒、ブルーにピンクと様々だった。
あいつのおもしろいところは、それらを律義に衣装ケースにしまっていたところだ。もちろんその衣装ケースも2人がけの椅子くらい大きくて、革張りのかなり高そうな一品だった。
聖の家にあった大半のものは誰かからのもらいものだった。ただし、聖はそれがどこの誰からもらったものなのかということは、全く把握していなかった。それどころか、貢いでくれた人の顔自体もまるで覚えていなかった。
もはやスーパーアイドルだと思った。
俺はそのうち、聖のもとにやって来る女性には共通点があると考え始めた。
あいつに引き寄せられる女性は大抵、聖を見てキャーキャー騒ぐようなタイプではなかった。
陽というよりは陰。密かに想いを寄せるように見えて、家まで押しかける大胆な行動をとったり、ヘタしたら事件に発展しそうな危険を冒してまで聖と関わろうとする女性もいた。
そして彼女たちの贈り物はまるで恋人に選ぶようなものばかりだった。
何度目かに家に行った時、俺はバスルームの隣のいわゆる納戸みたいな小部屋で大量のシャンプーや柔軟剤を発見した。棚にもびっしり、床にもどっさり。
それらはもちろん全て“ファン”からの贈り物だった。
見るからにセレブが使っていそうなブランドもので、高価に違いなかった。聞いたこともない香りの名前、見たこともないパッケージ。
それらは全て“もらいもの”で、“おそろい”だった。
“使わないだろ、断ればいいのに”
そう言って、俺は口をつぐんだ。
‥そういえば、聖は良い香りがするんだった。
そうだ、あんな油とすすと金属にまみれて仕事をしているのに、作業着はいい匂いかもしれない‥洗剤の匂い程度にしか思ってなかったけど、こんな高級品であの汚れた作業着を洗っていたんだ。
こいつ、ちゃんと使ってるんだ‥
そう思ったら無性に笑えてきた。
これが“ギャップ萌え”ってやつか‥。
「これ全部女性用じゃん?」
俺は棚に並んだ濃いピンクの巨大な宝石のような容器を手に取った。
「どうすんのこの量?」
キッチンを覗くと冷蔵庫の前で聖はペットボトルの水を飲んでいた。
「これ、ここにあるやつ、もう置ききれないでしょ」
「来るもの拒めず、ここに極まれり、だよ」
聖は俺の言葉に何も答えず、ペットボトルを冷蔵庫に戻した。
“そういうのにしてもらってるんだ”
「え?」
“時計とか、財布とか、使わないから”
……あぁ、そ。
俺はふと何かを察した。
リビングの巨大な本棚が怪しかった。
俺は10段くらいある引き出しを片っ端から開けた。
案の定、ごつい装飾の施された引き出しの中には高級ブランド時計が山ほど並んでいた。
――唖然とした。
“ああいうの”で“手を打ってもらってる”というわけか。
「え、おまえまさかこの異国情緒たっぷりの高級家具ももらったんじゃ‥?」
俺は足元のペルシャ絨毯を見下ろし、ソファに腰掛けている聖を見た。
「え?マジ?」
そのとき初めて、この別荘がまるごと“もらいもの”だということを知った。
“バッズがくれた”
ボスの古い友人で、ドイツ人のピアニスト。
“もう使わないからって”
この貢がれ体質は本物だ。一種の才能だ。
俺は聖のことがますます知りたくなった。