長編小説「きみがくれた」中‐61
「真っ赤な笑顔」
暗い部屋は耳を澄ましても閉じ込められたような静けさだった。
ドアの隙間を抜けて廊下へ出ると、寒さに身震いした。
いつものコーヒーの香りが漂っている。
外へ出ると足はほとんど雪で隠れた。
それでも坂道は両脇に雪が避けられ、けれど地面は所々薄い氷が張っていた。
ハルニレ通りはあちこちに雪の山ができていた。道幅は普段の半分くらいになっている。
ゆっくりと前へ足を進めながら、途中その雪の山に登ってみる。
向かいの通りを見渡し、後ろを振り返り、そして再び道へ降りて前へ進む。
赤いポストで休んでいるとすぐに体が冷えてくる。
エコマートがあった場所は、相変わらず何もない。
椴の森は見渡す限り白一色になっていた。
誰も歩いた跡がない。
これ以上は雪を除けて進めないところまで来て、今朝は月見山を諦めた。
見上げると真っ青な空がくっきりと澄んで、目の前に広がる一面の雪に光の粒が反射している。
眩しいくらいの白い世界で、遠く月見山を仰いだ。
“すごいよ霧島!!”
“ほら見て!ぼくの足こんなとこまで埋まっちゃう!”
誰の足跡もないまっさらな雪野原に、幼いマーヤのはしゃぐ声が響いた。
“見て霧島!”
“あはははは!こんなに積もってるとは思わなかったね!!”
さらさらの雪をすくっては空へ投げ、その降ってくる雪を浴びていた。
真っ白に光り輝く雪の中で、マーヤの笑顔が跳ね回る。
“霧島もおいでよ!!”
“ほら、すごいよ!あはははは!!”
満面の笑みでこちらに手を振るマーヤを霧島の上着の中から眺めていた。
温もりに包まれたまま、時折吹く冷たい風が鼻をかすめる。
“ねえ霧島!見てて!”
両手を広げ勢いよく後ろに飛び跳ねると、マーヤの体はすっぽり雪の中にうずまった。
“あはははは!!あはははは!!”
遠くで仰向けのまま声高く笑っているマーヤに、耳元で呆れた声がした。
“あはははは!!あはははは!!”
“すっごいよこれ!!”
“すっごく気持ちいいよ!!”
“またカゼぶり返すぞ”
その声はもちろんマーヤに届いてはいなかった。
見上げるとその口の端はどこかうれしそうな笑みを含んでいた。
それから数日後、マーヤは安西先生から“こっぴどく”怒られることになる。
“病み上がりで雪の中を走り回るとは何事か”
“しもやけをこんなにつくってバカタレが”
マーヤが学校を休んでいる間、霧島は毎日マーヤの部屋にいた。
ある日偶然安西先生と“鉢合わせ”した霧島は、“病み上がりの体で雪の中にいた愚か者”のマーヤよりも、“何十倍も”“ギッチギチに”叱られた。
“真理子!!光樹が喜ぶからと言って央人のサボリを容認するんじゃない!”
“小学生のうちからいかんもんはいかんと――”
先生は帰り際、玄関先でマリコのことも叱っていた。
“だいたい光樹は奔放が過ぎるわい”
“昔よりは丈夫になったからといってもう少し自制を覚えねば”
先生は真理子に“懇々と”言って聞かせていた。
“水を得た魚も泳ぎ方を誤れば水から飛び出してしまうのだぞ”
けれど真理子は先生にこう返していた。
“あの子、きっと今までできなかったことを全部やってみたいんです”
“あの子がとても楽しそうで、私もとても幸せなんです”
先生の小言は2階のマーヤの部屋まで聞こえていた。
霧島はベッドの上でマーヤの“興味のない話”を聞き流しながら、口の端を少し上げた。
“安西先生、霧島に学校に戻れって言わなかったね!”
マーヤはまだ熱った顔でそう言うと、口元を押さえてくつくつ笑った。