【Myノマド#11 @チェンマイ】「象カフェ」は最高に癒される場所だった
タイ・チェンマイには、自然豊かなカフェがたくさんある。
「カフェ運営法第一条:自然豊かな空間にしなくてはならない」
みたいな法律があるんじゃないかと思うくらい、本当に多いのだ。
そんな「自然カフェ」の最たるものの1つが、「像カフェ」だろう。その名の通り、象がいて自然に囲まれたカフェだ。
今回僕が行こうと決めたのは、「Elefin Farm & Cafe(エレフィン ファーム & カフェ)」。チェンマイ中心地から、車で1時間ほどのところにある。
地図を見るとお分かりいただけるかと思うが、このカフェは山の中にある。だから、グネグネとした道をひたすら車で走ることとなった。
小一時間ほどの「登山ドライブ」を楽しんだところで、ついにカフェに到着。ドライバーの人もどうやら初めて来た場所のようで、運転席から降りてしばらく辺りを見渡していた。
運転手にお礼を言って、カフェに向かう。遠くに広がる山々や風に揺れる草木、風の音がはっきり聞こえるほどの静けさ……。まさに、理想的な自然カフェだ。
早速ランチを食べようと思い、好物・ガパオライスを注文して席に着く。壮大な景色と非日常感も後押ししているからか、「人生で最もおいしいガパオライス」と言っても過言ではないくらいだった。
さて、気になる象はというと、食事をするスペースの目と鼻の先にいる。ただ、象は柵の中にいるし、常に象の世話をする人(「象使い」とでもいうのだろうか?)が一緒にいるため、テーブルまで向かってくることはない。
ただ、人間側が象に向かっていくことは可能で、「象にエサを渡せる高台」がある。ここは、カフェで売っている象用のバナナをあげられる場所だ。
バナナを持っていくと象が一気に集まってくるが、常に「象使い」の人がいるため心強い。もちろん、エサをあげるのが怖い人は、柵に近づいて象を眺めるだけでもOKだ。
山の中にあるカフェ、遠くまで見渡せる山々、そして象。そんな癒される空間に、僕は2時間近くも滞在してしまった。
そういえば、普段ならカフェに行くときは必ずパソコンを持っていくのだが、どういうわけか今回はホテルに置いてきている。どうやら、その判断は正解だったらしい。
こんな自然に浸れる場所に来てまでパソコンを叩いていたら、それは人間本来のあるべき姿ではない、と思う。
——ただ、そう思う反面、「パソコンを持って来ればよかった」と思う自分もいる。これは海外ノマドをしている人になら共感してもらえるかもしれないが、「非日常感あふれる空間で仕事ができる」ことに喜びというか、"海外ノマドらしさ"を感じるからだ。
またここに来る機会があったら、そのときはリュックにパソコンを忍ばせておこう。
さて、「象カフェ」での平和な時間は、思わぬトラブルに発展する。なんと、ホテルまで帰れないのだ——。
なぜかというと、足がないから。山の中にいるためタクシーなんか捕まらず、配車アプリ「grab」でも1台もヒットしない状況に陥っていた。
唯一可能性があるとすれば、「タクシー会社に電話をして来てもらう」という案。僕はカフェの人に自分の状況を伝えて、タクシー会社に電話をかけてもらった。
店員さんは電話越しにタイ語で会話をしているため、状況の把握はできない。僕は少し心配になりつつ、電話が終わるのを待った。
2分ほど待っただろうか。スマホを耳から離した店員さんが発したのは、「ここまでは来られないみたい」という言葉。
「え、もしかして歩いて下山……?6時間くらいかかるじゃん……」という絶望的な状況に陥った。
しかも、時計を見ると今は15時を少し過ぎたところ。今出発したとしても、下山途中で暗くなってしまう。そんな不安と焦りは、このカフェでの癒しを消し去るのに十分すぎるほどだった——。
僕は今、ホテルの部屋にいる。時間はもうすぐ18時になるころで、部屋の窓から「象カフェ」のある山を眺められるほど外は明るい。
そう、なんとか明るいうちにホテルまで帰ってこられたのだ!
なぜわずか3時間ほどで帰れたのかというと、異常な速さで走ったから……ではもちろんない。カフェの店員さんに、親切にしていただけたからだ。
じつは、タクシーが呼べないことが分かって落ち込んでいる僕に、店員さんはこう言ってくれた。
「私、これから買い物とかで街に行くから、途中まで車で送ってあげる。街に着いたらgrab呼べるから、ホテルまで帰れるよ。16時くらいに出発するから、あと30分くらい待っててね。」
もし逆の立場だったら、こんな風に手を差し伸べられるだろうか。カフェの利用客とはいえ、見ず知らずの人だ。しかも、店員さんは女性で、僕は男性。少なからず、不安はあるだろう。
僕は最大限の感謝を伝えるため、手を合わせて「コップンカップ(タイ語での「ありがとう」)」と繰り返した。「現地の言葉で『ありがとう』と言えることの大切さ」を、このとき身に染みて感じた。
16時になり、店員さんの車に乗り込む。山を降りる途中、店員さんは時々車を止めて道ゆく人にあいさつをしていた。誰に対しても親切なその姿は、まさに女神だった。
40分ほど走ったところで、街に着く。店員さんは、僕をセブンイレブンまで送ってくれた。車を停めると、「ここならgrab呼べると思うから、ホテルまで帰ってね」と言ってくれた。
僕は改めて「コップンカップ」と伝えたが、どうにも感謝を伝え切れた気がしない。そこで、「これ、本当に感謝の気持ちで……」と、チップを渡そうとした。
店員さんは、間髪入れずに拒否した。「え、いいよいいよ」と。
それでも、やっぱり受け取ってもらわないと自分が納得できず、「受け取るまでは車から降りん!」のようなスタンスを貫いた。
どうにかチップを受け取ってもらい、お別れの時。最後にもう一度「コップンカップ」と伝え、車を降りた。だんだんと小さくなる車の後ろ姿を、しばらく見つめていた。
ホテルに戻る道中、「お金でお礼をする"便利さ"と、もどかしさ」を感じていた。
チップという仕組みがあるくらいだし、お金には「感謝の気持ちを伝える効力」があるのは間違いではないはずだ。だから、語弊を承知で言うと"便利"である。
一方で、「本当に感謝していることの証明がお金」ということにもどかしさも感じる。感謝の気持ちにお金で味付けをしないと、おいしく食べてもらえない——。そんな気がしてしまうのだ。
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