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#習作  白湯と冬雲

1 白湯と冬雲(1700文字・読了10分以内)

あの日の父は、玄関の戸を開けるやいなや、ちょっと気分が悪いから明日は休むよ、とそういう意味の言葉を告げて、母が敷いていた布団にまるで余命いくばくもない病人のように倒れこんだのだった。

明治44年1月24日のことである。

いつもなら父が帰ると、湖面にわずかに張った氷を前にしたかのようになって翔太は足がすくんでしまい、ただの一歩も動けやしなかった。父は、唯一の子である長男翔太の尋常小学校の内申をやたらと気にしていたのだけれど、この日の父は薄氷の上を浮遊するかのように奥の寝床に向かった。地に足がつかず、まるで何かに導かれているようにも見えた。唯一、板の間の軋む音だけが、翔太に父の存在がまだこちら側にいるのだと感じさせるのだった。

悪天候になると頭痛がするという母は、いつもと様子が違う父に気がつき「なにか必要ではございませんか」と問うたのだった。
父は、しばらくは小鯛は出さんでくれ、そういって大きく寝返りをうった。いつもなら、酒の2、3合でも飲み、冬のこの時期なら酔いを冷ますのに丁度良いなどといって小雪舞う縁側にでて、さらに熱燗をもう2合ほど飲み、重心が定まらずふらりふらりと寝床に戻ってからやっと振り子は静まり、やがて大鼾(いびき)をかいていたのだが、この日ばかりは違った。ところどころ漆喰が剥がれた壁に向いたまま寝息一つとしてたてなかった。

母が父を起こそうとすることを、翔太は見たことなどなかった。
しかし、よほどのことが起こったのかと思ったのであろう、母は、
「大丈夫でしょうか」
と、肩に触れるか触れないかの距離に手を近づけ、そして耳に届くか届かないかの声で囁いた。
すると、父は、
「今朝の陽光はすぐに雲に覆われてしまった。独居房の北の小窓には一瞬たりとも届かなかった。秋水は、小鯛には手をつけず白湯をただすすっただけだったよ」
と、いつもの声量で告げて、雪が舞い散るよりも早く眠りに落ちたようで、すぐに大鼾(いびき)が部屋に響いた。
「土佐の親が面会にきてくれたのは最後だと気付いていたのでしょうか。あなたはこの国にも、幸徳にも、そしてその母にも尽くしたのですね」
翔太には明日になるまでわからなかったが、母は全てを察していたのだった。おそらく満月であろう光は、冬雲にいともかんたんに覆われていた。

翔太はいつも父より、30分以上早く目覚めねばならなかった。翌日も、やはり、翔太は30分は早く目が冷め、ひととおりの掃除をした後で、東京日日新聞に目をやった。翔太は、自分がみてしまったと父にさとられないように、かさぶたを剥がすかのように慎重に頁をめくったのだった。
その東京日日新聞は「大逆事件幸徳秋水死刑ス」との見出しから始まっていた。明治天皇の暗殺を企てた首謀者幸徳秋水が昨日、絞首刑に処されたそうだ。午前8時6分に落とし板が開いたとのことであった。新聞には、秋水ほか10名の悪行と天皇陛下の仁慈によりその他多くの者が減刑されたことが記されていた。

翔太が後に聞いことであるのであるが、秋水の母は、死刑のわずか2ヶ月前の11月に老身を押して土佐から東京にやってきていたそうだ。(このときは、今だ死刑囚ではなかったのであるが)死刑囚になどあわせるべきではないという官吏がいた中、父はその反対を押し切ってわずか10分の面会を認めたのだった。幸運にも秋水の老いたる母は、彼の死を待つことなく、また年を跨ぐこともなく死んだそうだ。

翔太はそろそろ父が起きるだろうと、父の和室にむかった。やはり、いつもどおり父は仰向けになっていたのだが、大鼾(おおいびき)も少しは収まっていて、すぐに目が冷めたのだった。
翔太は、急に気分が悪くなって、嘔吐しそうな昨晩の夕食で出た魚を、飲み込むような感じがした。だから、東京日日新聞のことを言おうとしていたが辞めたのだった。
父は、死刑執行の翌日である今日も、いつものように午前6時に目覚めて、宝劔を2度3度と磨いた後、食についた。やはり、平静であった。
平静であったが、それは絶望の深さにも思われた。
今朝の陽光も、やはり陰鬱とした冬雲に隠れてしまった。
(了)

2 セルフライナーノーツ(おわりに)

「共産党宣言」の共訳者としても有名な幸徳秋水の最期をモチーフにした習作。リアルな僕(ハヒフ)が眠る前に、山田風太郎「人間臨終図巻1」(徳間文庫・2001年)・221頁を読んでいたので思いついた習作。秋水に刑を執行した官吏とその家族との掌編です。なお、幸徳秋水について、詳しくは、下記をご参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4

2 著者情報
著作:ハヒフ
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ハヒフ
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