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僕とヤなことそっとミュート

2022年4月22日、ヤなことそっとミュートの現体制終了(同年6月26日をもって)が発表されました。

このnoteは、僕(ハイ、ジョージィ)がその変わりようのない事実を受け止め、消化することを目的として書く文章です。だから「読むためのもの」ではないんですが、それでも文章は不思議なものでそこに擬似体験めいたものが生じたりするので、それを皆さんに感じてほしいとは思います。僕にとっての「ヤなことそっとミュート」について。

前回のnoteは軽く自己紹介になってるかもしれませんが、簡単に。
高校生くらいから主に国内のオルタナに接し、大学から洋楽も聴き始め、社会人になってから地底インディーズを漁り始め、そのあたりから地下アイドルとの接点を持つようになりました。
何がしたかったんでしょうね。「違うもの」「唯一のもの」が欲しかったのかもしれません。常道では、ありふれたものでは勝てないから。勝つって、何に?

初めてヤナミューを観たのは2017年7月のアイドル横丁夏祭りでした。後述しますが、このイベントに行こうと思っていた時、僕はわりと空っぽな状態でした。逆に、そうじゃなければ行こうと思わなかったかもしれません。それまでアイドルは対バンでは見たことがあっても、アイドルしか出演しないイベントには行ったことがありませんでした(ちなみにお目当てはフィロソフィーのダンスでした)。

ヤナミューのファーストインプレッションは、どうだったかなあ。「雰囲気は好き」「みんな可愛い」くらいの感じでした。4番地で、『Lily』やってました。どっちかと言うと5番地のMIGMA SHELTERに度肝を抜かれたので、夕方にこの2組が連続となる2番地を流れで観ようという感じでした。
この判断が、その後の運命を分けました。

あとはお察しの通りです。
この日僕はともかくめちゃくちゃ楽しみ、帰り道は何とも興奮して満ち足りており、ここに来る時に感じていた空っぽの事などすっかり忘れていました。そして、件の知らせがもたられた後の2022年の現在に至るまで、その「空っぽ」はまだ姿を見せていません。
僕は勝ったのかもしれません。何に?

空っぽ。
僕は基本メンヘラなので、あんまり思ったことの表現伝達がうまくないというか、スマートではありません。色んなこちゃこちゃした要素が頭についてきて、それが煩わしくもあり、でもそういう要素こそが大事なことのように思ったりもしていました。
その出し入れがうまくいってる時はいいんですが、ダメな時は本当ダメなんですよね。まあそれはいいや。

僕の母親は肝っ玉母ちゃん的な人で、父親は何考えてるか何してるかもよく分からないけどどうやら凄い仕事をしているらしい、個人的にはともかく、家庭的にはそんなに不自由のない、おおむね幸せと言っていい暮らしでした。兄弟げんかで殺されそうになったりはしたけど。友達は多くなかった。軽いいじめは受けた。家でマンガ描いたりゲームやってる事が多かった。学生時代は壊滅的にモテなかった。後になって「実は好きだった」とか言われたけどそれは当時言ってくれよ頼むから(?)
……話が逸れましたね。

8年ほど前でしょうか。
仕事から帰ると、郵便受けに封筒が入っていました。母親からの、厚めの封書でした。それまでそういうのを受け取った事がなかったので、内容の想像もつかないまま、開封して読みました。

要は「父親に癌が見つかった」と。しかも、ステージIVだって。

ステージIVって何だっけ?と思ってググッてみると、いわゆる末期でした。「まあでも、こういうのは出来た部位によるよな〜」と思って書かれていた部位でまたググッてみると、5年生存率が5%にも満たない、非常に手術の難しい箇所らしい。

ここから先は長くなるので端折りますが、母親はライトな仏教徒だったのがアレな宗派(?)に相当のめり込み、ありとあらゆる治療法(怪しげ含む)の可能性を探り、僕は細々とした現実的な手助けをしつつ「まあ実は何とかなるんじゃないの」と、楽観と逃避の間みたいな状態にいました。
結論を言うと、全然何ともなりませんでした。
夏の盛りの頃には、父の何度目かの命日を迎えます。

父は気丈というか理知的な人で、自分の状況を客観的に見つめ、治療や寛解に向けて試行錯誤しながら、色々手記を残すとともに可能な限り仕事を続けていました。少なくとも傍目には、ほとんど取り乱すこともなく。一度だけ(まあこれはトラウマエピソードなので書かないでおきます)。
最期は麻酔を効かせ続けて、文字通り眠ったまんま息を引き取りました。

医療関係者の方々は本当に尽力してくださったし、自分の中に悔いとかは残っていません。ただ、神仏に心の底から祈るような事はなくなりました。

一緒に行った飯屋とか、夕飯時の茶碗の数とか、買ってくるプリンの個数やら、送り迎えの必要性がなくなったことやら、そういう日常の細かいところで、思いを巡らすようになりました。

家族が「減る」っていう感覚は、自らの半身を削られたような感じでした。これは比喩ではなくて本当にそうなのです。
傷口を塞がなければ、何か相応のもので埋め合わせなければ"倒れて"しまうし、それが出来たところで以前のとおりには、決して戻れない。その形のまま進んでいくしかない。辛そうな顔したって何にもならないので、笑顔で。

残された家族はみなそうなのですが、僕もいろんな方法で、欠落を埋めようとしました。女性関係(あんまり人に言えない)も含め。そんな中で、時間の問題でもあったのでしょうが、なんとかかんとか、傷口を塞ぐ事だけはできたのだと思います。
それでも、その欠落はずっと埋めることができませんでした。

_________2番地のライブ。

いきなり始まった『orange』で嬌声を上げるオタク達。
「何!?」と思うのもつかの間、別に知り合い同志でもないらしいのにいきなり輪になって訳の分からない言葉を吠えまくるオタク達(この時はまだMIXという概念を知らない)。その謎のエネルギーにびっくりさせられるけど、なんだか眩しい。
時間はちょうど夕方、日の翳りつつある頃。
日中の熱を蓄えた足下の砂地、背後には涼やかな海風。汗ではりついた衣服、日焼けの感触、乾いた喉、赤レンガと灯、ステージライト。
歌われているのは夕焼けと思い出の歌。楽しげで、少し寂しそうな歌。

ステージ上の4人はただただ真っ白で、涼やかで、今まで見てきたどんな色にも似つかなかった。なんて表情をするんだろうか。この子たちは、一体何を見てきたんだろうか。僕よりもずっと若いだろうに。

鮮烈なイントロが聴こえて、オタク達が歓喜したのが分かった。夏の歌だ。夏祭りの歌かな。ああ、ピッタリだな。
恋の歌だ。(そんな、あからさまな…)ああそれでも、これはもう、ピッタリだ。

夏の夜はこころ攫うから 昔見てたあの夢が
鮮烈によみがえったりして また痛みだすよ
でも見上げた空に浮かぶのは 遠きReality
重なってくシーン 今映るのは滲みだす花火

ヤなことそっとミュート『Done』

そこから、今までヤナミューのライブを何度観てきたでしょうか。数えた事はなかったけど、100を切ることはないと思います。200か、それ以上いってるんではないでしょうか。
そんな中で、いつからか(おそらく『YSM TWO in Osaka』とか、『Afterglow』が初めて披露された頃)、ヤナミューが自分にとってかけがえのない存在として、自分の心の中に住み着いてくれていることを認識する自分がいました。

「空っぽ」を何で埋めるか。どうやって埋めるか。多分それは、こちらからは選ぶ事ができません。もしかしたら、一生埋まらなかった穴かもしれない。何かが入り込んでくれただけ、その人は幸せかもしれない。少なくとも、それで歩き続ける事ができる。
僕にとっては、たまたまそれがヤナミューだったみたいです。
ヤナミューを好きになってこの五年間(もちろんこの間、ヤナミュー以外にも沢山のアイドルカルチャーに触れ、その素晴らしさに何度も支えられてきた)、「空っぽ」なんて一度も感じずに、楽しく歩いてこられた。家族を失った欠落を、まったくの偶然であってもヤナミューが埋めてくれたんだから、これはもう家族みたいなもんです。メンバーも楽曲も、まあオタクも好きなんですが、そのどれかじゃなくてやっぱ「ヤナミュー」なんですよね。
「ヤナミューは実家」とかよく言われるけど、僕にとってはそういう意味なんですよ。もしかしたら、誰か他の人にとっても。

父の話を公にしたのはこれが初めてで、あまり書きたいとも話したいとも、今まで思いませんでした。触れないでほしいって事ではないんですけど。ひとえにメンバーと、運営の方々・携わった方々、あとは(まあしょうがないから)オタク達に、敬意と感謝を伝えたくて、そして自分でも「今なら書けるな」と思って書くことにしました。

皆さんのおかげで、この五年間、心から日々を愛し楽しむことができました。この季節は僕の人生において、もっとも輝かしい季節の一つであろうと思います。とは言っても現体制終了まで2ヶ月ばかし、まだまだ楽しめるし、逆にこれから先、どんな事があるか分からないですけどね。
「あの日とは別のわたしになったんだ」って、本当にあるんだなあと思って。

空白埋める道具に夢はぴったりで
すごい発明をしたんだそんな気分で
なんだって描いた

あの風景 あの季節へ

ヤなことそっとミュート『ホロスコープ』

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