映画『月』鑑賞レポート
10月某日、私はある映画を観るために家を出た。
大阪梅田にある映画館へ向かおうと電車に乗り込んだ私だったが、うっかりしたことに映画の上映スケジュールの確認を怠っていた。急いで手元のスマートフォンで検索をかけたが、、、しまった、上映時間に間に合わない。仕方がない。少し遠いが、京都の映画館になら間に合いそうなので、十三で降りることにした。
十三から河原町に向かう電車。これは私の乗り慣れ電車である。大学時代の通学ルートなのだ。毎日片道2時間かけて大学に通っていたので、講義を受けているよりも長い時間電車に乗っていることもあった。電車へは様々な人が乗り降りする。学生たちやサラリーマン、着物を着た女性や、宝塚音楽学校の生徒らしき人を見かけることもある。その中でも存在感があるのは、大きな車椅子の上で横たわっている障がい者を連れた人達。私は重度の障害を持った人を見かけると、奇妙な気持ちになる。何を思えばいいのか。どういう感情が正解なのか。しかし、それ以上考えるのはよそう。私には関係のないことだ。
だが、この日観た映画はその問いを執拗に投げかけてきた。
宮沢りえさん主演の映画『月』は2016年に実際に起きた殺人事件をもとにした作品である。2016年7月26日未明、知的障がい者施設で働いていた元職員が45人もの人を殺傷した事件だ。
この映画の公開を知った時、ホラー映画好きの私は、他の大量殺人を扱う映画と同じく、殺人犯を狂気的に、あるいは猟奇的に描かれているものだと想像していた。しかし、その男はむしろ誠実で真摯に障がい者と向き合っている様だった。他の職員が乱暴に入所者に接している中、彼は手作りの紙芝居を作り、読み聞かせる練習までしているのだ。
そんな彼が殺人の計画を企てる。それに気づいた主人公の女性が彼に問い詰める。障害を持っていても人の命は平等である。人間を殺すのは間違っていると。しかし、彼は淡々と切り返す。意思疎通のできない重度の知的障がい者を人間だと定義できるのか。心がない障がい者を殺すのと、出生前診断をして障害が認められた場合中絶を選ぶのと、一体何が違うのかと。主人公は頭を悩ます。彼女は以前、先天的な病気を持った子供がおり、わずか3歳の命で亡くしている。そんな彼女は、また新しい命の身籠もり、出生前診断をしようか思案中だったからだ。男は続けて言う。
「本当はみんな障がい者なんていなくなればいいと思っているだろう。」
私はハッとした。確かにそれは当事者ではない健常者の隠された本音ではないかと思った。もちろん、障がい者が殺されるべきだとは誰も思っていないだろう。しかし、この社会から誰かがひっそりと排除してくれることを心のどこかで願っているのではないか。この事件が起きた時に私が感じた不快感とは、多くの人々が犠牲になったからではなく、それが私の知らぬところで行われず、事件が明るみになったことに対する嫌悪感だったのではないか。
彼は障がい者と真摯に向き合おうとしたからこそ、不甲斐ない自分と比較し、彼らと自分が同じ人間であるはずがないと思いたかったのかもしれない。それほどまでに、重度の障がい者が入所する施設で働くことは精神的に大きな負担がのしかかるのだろう。
我々は普段、障がい者と向き合うことを避けている。安易に同じ人間であるから平等だとも言えないし、障がい者なんて不必要だと優生思想に走ってしまうのも怖い。しかしこの映画は、この問いかけを拳銃かのように、容赦なく観客に突きつけてきて、私は身動きが取れなくなってしまった。ゆっくり時間をかけて、私なりの答えを探そうと思う。