哀しいことに、この先真・女神転生Ⅰのような作品が現れることは無いでしょう。

 真・女神転生が好きです。特にⅠ、次いでⅡ。Ⅲは悪くはないけどアマラ深界が蛇足で、Ⅳは後半はいいが前半部分の粗が多く、ⅣFはキャラクターの活かし方は評価できるがメガテンらしくなく、Ⅴは試みは良いけど中身が伴っていない。SJは未プレイです。
 訂正、真・女神転生のⅠとⅡが好きです。

 ところで、こんな疑問も生じてきました。『では、一体真・女神転生の何が好きで、何を求めているの?』。
 この疑問にもし完璧に事が出来たなら、私はこの先生きのこるなかで、足りない真・女神転生Ⅰニウム略してメガテニウムを得やすく……つまり、それっぽいゲームを見つけるときに、指標として役に立つことになるに違いありません。
 けれど、それは単純な命題に思えて複雑であるのは確かで。でなければ、世の中に存在する真・女神転生フォロワーのゲームにうれしいうれしい言いながら貪り食べているはずであり、現実は空腹のまま取り敢えずメガテンシリーズ関連作品を買い漁り、これはこれで……と納得しかけて正気に戻ることはしなくていい筈だとおもいませんか? おれはしょうきにもどった。

 なので正気に戻ったついでに何が好きで、何を求めているのか。一度真・女神転生Ⅰを分析してみようとふと思いついた次第であります。

『らしさ』について

そもそも「らしさ」とは何か?

 早速分析していくのもいいけれど、その前に作品に対するイメージ、所謂「らしさ」とは一体何なのか。それを示しておく必要があると思いませんか?
 まあ作品と大きなくくりにしてしまうと小説やら漫画といった媒体の事まで言及する必要があるので、ここではあくまでもゲーム作品のらしさというものに留めることにして。
 
 では果たして、ゲームをするときにどういったところでらしさを感じるのでしょうか?
 考えられるのは大きく分けて二つ。ゲーム性と世界観(※世界を構成する要素。ここではキャラクター、ストーリー、雰囲気等全てを含めたものの事を指す)。
 例えばゲーム性。ファイアーエムブレムはSRPG、スマブラなら格闘ゲーム、またはパーティゲーム。
 仮にこれらのゲームで、もし世界観を変えたらどうなるのか。極端に現代に近くしてみたり、極端にファンタジーに寄せたりしても恐らく需要外になることはないと思われます。
 それはゲーム性がらしさであるゲームとは、殆どそれが本質であることが多いから、であると思われるからです。要は、ストーリーとか世界観とかは二の次で、取り敢えずそのシリーズのゲーム性を楽しみたいから、求められるものなのだと考えられます。
 まあ言わずもがなこれは極端な例にすぎず。実際の所はゲーム性は良いけど前のストーリーのが良かったとか(いやそれは別の問題では?)、ゲーム性だけしか面白くないとか言われることもままあり、限定することはできません。

 そしてそれはもう一つの世界観の方にも言えてきます。
 ファンタジー、現代伝奇、SF、そういったジャンルで作られる作品に求められるのはそういった世界観自体が求められることが多く、ゲームジャンルがあっちこっちに行っても期待した世界観を提供されるのなら多くは満足するでしょう。
 しかし、だからってゲーム性をないがしろにしたら結局は微妙になってしまうのは、こちらも一緒です。どちらかを求められたからと言えど、どちらも一つのゲームを構成する要素である為にないがしろにはできません。

 つまり、一体どちらがらしさを作っているのかという問いへは、どちらでもあるというのが答えになるのでしょう。
 要するに、比重の問題
 ゲームのらしさについて人がそれに対して考えるとき、そのゲームのゲーム性と世界観どちらに比重を置いて重視しているのか。これがらしさにおいて大事な事なのであると、私は結論付けたのです。

じゃあメガテンらしさはどっち?

 本題に入りますね。じゃあメガテンらしさとは、ゲーム性。すなわちRPG?
 これはまあ違うでしょう。確かに仲魔を集めて合体するRPG要素は特筆されるべき点だけども、仲魔がいるからメガテンらしくなるわけではない。独自の魔法があるからメガテンらしくなるわけ……ではあるのかな? シビアなゲーム性は評価されてるの? でもそれがメガテンらしい気はしないし、プレスターンバトルなんて、そんなの後続作品からでたもので。
 では同じゲーム性のアライメント?
 これはちょっと惜しい。選択でストーリーが変わるのはらしさの一つに挙げられるはず……と、思いたいけれど。よくよく考えてみればプレイヤーと主人公を同期させるシステムとして扱われるアライメントは、そのゲームの世界へののめりこみを強くするものではないか? つまり、ゲーム性ではなく世界観の方ではないかと。

 ここまで述べればなんとなくわかるというか、最初に好きなシリーズを述べた時点である種この結論に行きつくのは必然だけれども。
 つまるところ、私が真・女神転生らしいと思うのはその世界観についてなのです。 

真・女神転生の世界観とは

 世界観がらしいとするところまでは良いでしょう。
 では次は、そのらしさとは何かを分析しなければ、メガテンらしさというものへの理解を及ぼす事はできないでしょう。
 なので、真・女神転生とはどういうものだったかを確認して、その要素ごとに解体していきたい。

1分でわかる真・女神転生Ⅰ

 先ずは、あらすじを書き連ねて世界観の理解を深めよう。
 


 199X年、東京・吉祥寺。
 ある日、青年は夢を見る。不思議な夢、知らぬ人と出会い、何やら言葉を投げかけられる。そしてその夢が覚めてから、一通のメールと同時に主人公の周りでやおらに事件が起きていく。
 悪魔召喚プログラムと呼ばれる悪魔を使役するプログラム、突如出没する神話・伝説上の生物、殺人事件、街の封鎖、拉致、そして肉親の死。ありふれていた現代生活の裏から、その抑えきれぬ泥闇が鎌首をもたげてこちらを覗く。
 巻き込まれた主人公は頼れる仲間と出会いつつもそれらに立ち向かっていく――が。突如、ICBMを落とされ命を失いかける。ヒロインの力によって辛うじて難を逃れたものの、再度東京を訪れるとそこには既に崩壊した都市の姿しか残っていなかった。

 崩壊し混沌とした東京各地を巡る主人公たち。しかし崩壊したと言えど、そこには未だ文明の息が根付く。混沌か法か、ガイア教かメシア教か、あるいは属さないのか。そうした街と人の在り方に触れながら、時に仲間を失い、かつての仲間と出会い、主人公は何を思うのか。あるいは、プレイヤーは何を選択したのか。
 その結論は全てを飲み込む大洪水の後、最後に残った大聖堂のカテドラルにて出されることとなる。敷かれた法を遵守するか、渦巻く混沌を尊ぶか、あるいはそれらを一蹴するのか――。
 

 ※表現はイメージです。


 けれど、概ねこういった感じでしょう? うんうん。真・女神転生Ⅰにおいて大事な所は抑えたつもりです。
 そうしたら次は解体フェイズへ。

解体・真・女神転生Ⅰ

 再度注釈しておくと、以降の抽出する要素はあくまでも私自身が真・女神転生Ⅰに関して好ましくまた『らしさ』であると思っている要素です。その辺を留意して読み進めてください。

 真・女神転生Ⅰのストーリーラインを整理していくと、大きく二つに分かれているのは、多分指摘しなくても明らかであると思います。
 言わば、前半の崩壊前。後半の崩壊後の二つ。
 そしてこのそれぞれは地続きではあるにしても、異なる雰囲気を意図的にゲームにおいて表しています。では、それは一体どんなジャンルなのか?

①現代伝記
 メガテンといえば崩壊した東京、というイメージこそあれど、崩壊前の現代パートの描写無くしては崩壊後の感慨も減るという物です。
 真・女神転生Ⅰにおける現代パートでは、現代の日常を描くありふれたモノと対比するようにどこか薄暗い滅びにつながるモノが描かれています。物語が進んでそれに迫ると、段々と社会の裏側、陰謀めいた様々な事実が明かされていき、それは「現代社会の隠された真実」と捉える事ができるでしょう。
 こうした「現代社会の隠された真実」を物語にするジャンルの事を伝奇ロマン、或いは現代伝奇と言い、真・女神転生もまたそのジャンルであることは明らかだと思われます。

 伝奇ロマン、或いは現代伝奇。個人的に現代伝奇の方が耳馴染みがあり好みなのでこの場では現代伝奇としますが、念のため軽く定義の方を述べておこうと思います。
 そもそも現代伝奇とは、前提として伝奇(小説)というジャンルが存在します。伝奇(小説)の方で扱っている内容としては、実在非実在を問わず歴史や伝承等をベースとし、それに対して時に隠されていた事実の物語であったり、時に超自然的な現象が起こっていたとする物語であったりを描く、現代的に言ってしまえばファンタジーなジャンルの物語作品なのです。
 勿論肝心要は歴史や伝承の裏にナニかがあったという舞台設定で、それを脚色するためにファンタジーチックなことがあるということですが。

 そしてその舞台設定である歴史や伝承、そういった舞台の照準を現代に合わせた、或いは現代から連なるものであるとした物語が、伝奇ロマンあるいは現代伝奇である……と、私は思っています。(細かい定義の違いがあったら大目に見てください)

 定義を述べた所で改めて真・女神転生の崩壊前のパートについて考えると、様々な陰謀や事実と言った「現代社会の隠された真実」が明かされていくその物語の姿勢は、まさしく現代伝奇そのものであることが理解できると思います。
 そしてそれは、崩壊後にも通じる要素でもあるんじゃないかと私は思っています。

②ポストアポカリプス
 メガテンと言えば崩壊した東京! というイメージは、僅かでも真・女神転生という作品、或いはシリーズを含めて接する機会があれば感じる事が多いであろうし、実際に、真・女神転生Ⅰにおいて肝となるのは崩壊後のパートであることは容易にうかがえると思います。
 崩壊後の東京では、ICBMを撃たれて混沌と化した東京の各地を巡り、そこに生きる人々の様相が描かれ、そして目撃します。
 終末もの、あるいはポストアポカリプス(ポスト・アポカリプス)といった作品ジャンルは、そのような崩壊した世界、崩壊していく世界を描くものであり、崩壊後の様相を表すのに最も適した言葉でしょう。

 いわゆるポストアポカリプスは、これといって厳密な定義があるわけでもなく、大まかに崩壊した後の世界を表すもの(アポカリプス=黙示録、転じて終末等。ポスト=~後を示す接頭語。)で、ものによっては文明であったり心理であったり、「崩壊した世界」という舞台設定の上で動く様々を示すことが多い。なので、このポストアポカリプスというジャンル自体が真・女神転生の詳しい性質を表している物ではなく、崩壊後のジャンルを示すものとしては最適なものではないという見方もあると思われます。

 これは個人的な見解にはなりますが、その曖昧さこそが、「ポストアポカリプス」という括る範囲の広さこそが、多くを語らない(語れない)真・女神転生Ⅰにおける崩壊後の東京に対するイメージを増幅させていると考えています。
 ですので、このある種のファジーさのあるポストアポカリプスこそ、ふさわしいと考えるのです。

③サイバーパンク
 
ここまでに崩壊前、崩壊後としての要素「現代伝奇」と「ポストアポカリプス」を挙げてきました。しかし、それだけでは表せない、もとい表しにくいもので、尚且つ重要なものが残っています。
 それは誇張はされないけれど全体に根付くオーバーテクノロジー。現代では身近な技術の延長線上を描くように、崩壊してからも技術そのものは失われず残る、オカルトと科学が入り混じる悪魔召喚プログラムをはじめとしたどこか仄暗いサイバー感。
 さらに加えるべきは、崩壊前、崩壊後問わず顕著に見かけられる反体制的な思想や行動。現代での警察への不信感からレジスタンスまで。崩壊後は各地の支配する様々な存在と邂逅し、その問題も見えてきます。言わば、反体制のパンク感。
 こうした現実的で、近未来的で、反体制的な世界観とその姿勢は、サイバーパンクと表す他に無いでしょう。

 真・女神転生Ⅰにおけるオープニングムービーには興味深い事が描かれています。即ち、『女神転生=デジタルデビルストーリー』だということです。
(以前書いたnoteで言及しています。『真・女神転生』は何を意味しているのか、という話|へーる (note.com)
 更に真女神転生Ⅰのゲーム中コマンド、compは戦闘等における重要な役割を担っていて、作中のサイバーさとの切り離しは難しいでしょう。

 そして真・女神転生Ⅰの時代設定は199X年とされており、これは発売当時である1992年から先の近未来であることも、このサイバーパンクへ裏付けられるものであるとも十分考えられます。考えられます? 若干の希望的憶測込みで。

 ただ、その憶測無しにしても一部の超越的な技術と反体制がサイバーパンクを醸し出していて、真・女神転生Ⅰ(及びⅡ)におけるサイバーパンクが大事な要素であると言えるでしょう。


解体結果/再結合

 そして三つのジャンル、『らしさ』を解体・抽出しました。恐らくこれらこそが真・女神転生らしさの元であり、大まかに分けるとすればこのような形になるでしょう。勿論、更に細かいジャンル分けの定義も可能ではあるかと思いますが、大枠としてはこの三つに。
 そう言わば、『現代伝奇』と『ポストアポカリプス』の両方(または片方)を含み、そして且つ『サイバーパンク』であるのだと。
 真・女神転生Ⅰは現代伝奇サイバーパンクポストアポカリプスサイバーパンクが前半後半で合わさったものなのだという事がおわかりになったでしょうか?

 そしてその『らしさ』への理解が進んだならば。
 それとは逆に、この三つ或いは二つを組み合わせた作品こそが、真・女神転生らしいと言えるのではないでしょうか?

 つまり、現代伝奇サイバーパンクな作品やポストアポカリプスサイバーパンクな作品――これらが単体でそうある作品は成立するものはあれど複数成立するもの――こそが、真・女神転生らしいと言えるのでしょう!







レトロフューチャー・サイバーパンクをもう一度

 と、ここまでが私がこのnoteを書くに考えていた真・女神転生という世界観に対する『らしさ』の答えでした。(最も、明文化こそはしていませんでしたが)
 では、再び考えてみましょう。前述の現代伝奇サイバーパンクでも、ポストアポカリプスサイバーパンクでもどれでも良いのですが。
 実際にそのどちらかのゲーム(あるいは作品)が存在しているでしょうか? と。

 答えは「存在している」。 

 どれも珍しいジャンルでは無く、三つ複合までいくと難しいかもしれませんが、一つならありふれ、二つぐらいなら見つかる範囲です。 

 そう、私が自信をもって(いや、それは単に度胸の類ではあるのですが)先の結論に至れなく、納得がいかなかったのはそう言う事なのです。そういう作品は存在しているにもかかわらず、真・女神転生「らしくない」

 あるいはそれは「真・女神転生」ではないからとも考えました。シリーズである色眼鏡であり、他作品には適用されるものではないのでは?

 これも否です
 何故なら、本家後続作品においても真・女神転生らしさ(正確に言うなら自分の好きなⅠらしさだけど)があまりない作品群が見受けられるからです。

 ではどうして「らしく」ならないのか。

 その答えは、サイバーパンク自体に存在しました。

真・サイバーパンク リターンズ

 先ず触れなければならないのは、『サイバーパンク』というジャンルを確立し、世に広めた張本人であるWilliam Gibson氏です。
 氏は、多くの後続のサイバーパンクと呼ばれる作品に影響を与えましたが、アメリカの週刊誌「TIME」の中で非常に興味深い発言をしています。

(前略)
In the '80s, when I became known for a species of science fiction that journalists called cyberpunk, Japan was already, somehow, the de facto spiritual home of that influence, that particular flavor of popular culture. It was not that there was a cyberpunk move-ment in Japan or a native literature akin to cyberpunk, but that modern Japan simply was cyberpunk. And the Japanese themselves knew it and delighted in it. I remember my first glimpse of Shibuya, when one of the young Tokyo journalists who had taken me there, his face drenched with the light of a thousand media-suns — all that towering, animated crawl of commercial information — said, "You see? You see? It is Blade Runner town." And it was. It so evidently was.
(後略)

The Future Perfect
By WILLIAM GIBSON Monday, Apr. 30, 2001

 簡単にまとめると、氏は「日本に既にサイバーパンクのような作品が無かったにも関わらず、80年代には日本が既に特殊なテイストの事実的な精神的故郷だった」と語っているのです。
 つまるところ、氏が描いたサイバーパンクの原風景は、既に80年代の日本(=東京)が持ち合わせていたものだったのです。

 そう、であるのならば。
 真・女神転生Ⅰにおいて描かれる東京の風景は、逆説的にサイバーパンクでもあるのではないでしょうか?
 そしてそもそも、真女神転生Ⅰで描かれるジャンルがサイバーパンクであるということは、このサイバーパンクの原風景、80年代前後の日本が持つそれをそのまま表しているのではないのでしょうか?

 とまあ、真・女神転生におけるサイバーパンクの認識を再度定義するのは良いですが、根本的な問題としての何故らしくないのか? は解決していません。

 ですので、何故?

 答えを簡潔に述べましょう。「サイバーパンクが原風景たる80年代でなくともサイバーパンクは成立するから」でもあるからです。

 当然、「サイバーパンクは特定の年代の雰囲気を出さなければ成立しない」などという訳ではなく、雑に言ってしまえばサイバーでパンクならそれはサイバーパンクなのです。(ほんとか?)
 また、90年代には80年代サイバーパンク終結宣言(Cyberpunk in the Nineties)がBruce Sterling氏によって描かれており、ジャンルとしてのサイバーパンクの現代までの変容があると思われます。(すいません、SF畑ではないのでここはかなり不正確です。あまり参考にはしないでください)

 つまり、「サイバーパンクであるならばイコール80年代日本の原風景を持っている」と言う事はできないのです。


『真』デジタルデビルストーリー リターンズ?

 全てのサイバーパンクが前述の原風景を有していないことを述べましたが、しかしそれをサイバーパンクの責任に押し付けるのは如何ともしがたいです。
 そもそもの根本的な問題はサイバーパンクの性質ではなく、真・女神転生の性質の方にあります。
 何故サイバーパンクが原風景を呼び起こすのか? 何故現代伝奇ではあれど同じ現代伝奇では足りないのか? ポストアポカリプスでもまた同様なのか?
 その答えとしてたどり着くのが「真・女神転生Ⅰが90年代の空気感を色濃く反映しているから」に他なりません。

 それは現代伝奇の点で見てもそう判断できます。当時の世相等を踏まえた現代感覚の表現と、当時噂されていた都市伝説を含む現代都市の不気味さや異様さを表現しており、語る上で当時の雰囲気を完全に取り除くことは不可能に思えます。

演説をするゴトウ戒厳司令官。実在の人物とは関係ない……のかな?

 仮にこれを「現代の世相を踏まえ、現代の都市伝説を踏まえたもの」と定義するとしましょう。そうするならば、今の政治に対するなんらかを含むのでしょうか。今の都市伝説……というより、陰謀論等を含むのでしょうか。
 そうして出来上がる雰囲気は、もはやⅠのそれとはかけ離れたものになると、想像する事ができませんか? 少なくとも私はそう思い、同時に現代でそう言う事に対する一種のチープな、或いは忌避される思想を起こすようなテクストが出来上がっているようにも思えます。
 ですので、真・女神転生Ⅰの現代伝奇は、90年代の雰囲気を持ったレトロな現代伝奇であるのです。

 ポストアポカリプスに関しては、サイバーパンクと同時に語るべきと思うので若干省略して。

 そのサイバーパンクでも、前述のようにサイバーパンク自身が持つ80年代日本の原風景を持ち合わせ、そして尚且つ真・女神転生Ⅰ自身がその頃の時代と近い90年代を舞台としているからこそという共通点もあるけれど、もう一つ重要な視点として、技術レベルに関して述べなければなりません。

 サイバーパンクとして様々な得意技術が出てくると言うのは述べましたが、実際はどんなものだったでしょうか? 例えばアームコンピューター。例えば悪魔召喚プログラム。ターミナル、旧警視庁の警察ロボット。

 これらの技術は、当時の感覚における近未来観です。
 何が言いたいかというと、サイバーパンクをサイバーたらしめる超技術は当時において想像されうる形で表されており、現代(90年代ではない)的に見ればレトロチックな風貌をしているのです。
 これこそサイバーパンクが現代のそれとは異なる理由。言うならば古い近未来観――レトロフューチャー或いはレトロフューチャリズムと呼ばれる性質を、真・女神転生では有しているのです。
 そしてポストアポカリプスの崩壊した世界にも技術はまだ残っていて、独自の発展を遂げています(と、思われる。本編内の正確な描写はないけれど)。そういった技術群もまたレトロフューチャーな技術なので同様の影響が見受けられます。


旧警視庁の警備システム。これは……なに?


 こうして述べてきたことから、最終的な結論は冒頭の通りです。
 「真・女神転生Ⅰが90年代の空気感を色濃く反映しているから」。
 つまり、90年代の空気感、90年代の未来観なくして、現代伝奇もポストアポカリプスもサイバーパンクも成立しえないのです。
 それぞれがレトロな現代伝奇で、レトロなポストアポカリプスで、レトロフューチャーなサイバーパンクで。
 「真・女神転生らしさ」とは、とどのつまりそういったレトロフューチャーサイバーパンクを中心とした、レトロな現代伝奇/ポストアポカリプスなのです
 

 真・女神転生Ⅱを考えましょう。大洪水の後の世界を描いたそれは現代伝奇ではないかもしれません。ですが、ポストアポカリプスでサイバーパンクです。しかし、両者とも古い、レトロなポストアポカリプスでレトロフューチャーなサイバーパンクなのです。つまり、真・女神転生Ⅱに「らしさ」を感じるのは、そのレトロな要素を持っているからに他ならないのです

 真・女神転生Ⅲを考えましょう。東京が死んだ世界を描いたそれは、現代伝奇の延長ではありつつポストアポカリプスでもありそうですが、サイバーパンクではありません。しかし、古くはありません。これは、新しい世界の話なのです。

 真・女神転生Ⅳを考えましょう。主人公の生まれこそ東京でなくとも東京が舞台のそれでは、世界が滅びたポストアポカリプスでもあり、サイバーパンクの要素も見られますが、現代伝奇ではないように思われます。しかしこれは現代の東京の話です。

 真・女神転生ⅣFを考えましょう。滅んだ東京で生まれ育ったそこで見受けられるポストアポカリプスとサイバーパンクは色濃く残り、既に現代は過去の話です。そしてこれも彼らの東京の話です。

 真・女神転生Ⅴを考えましょう。滅びて救われた事も知らない世界は現代伝奇の系譜として見られ、同時期にポストアポカリプスも内包する珍しい形で、更にはサイバーパンクではあるのか超技術もあります。だからこそ、最も新しい形の東京の話なのです。

 だからこそ私は、真・女神転生シリーズに真・女神転生らしさを感じなかったのではないのでしょうか?

 そして、今まで他に「らしさ」を感じることが少なかったのではないでしょうか?

おわりに

  さて、ここまで散々書き連ねてきましたが、以上が私が思うメガテニウムの諸要素です。なんじゃそりゃとかそうはならないでしょとか思ったかもしれません。ご容赦。無駄に膨らんだのを何割かカットしたのでもしかしたら説明不足の所もあったかもしれません。それもご容赦を。

 そしておわりに、そろそろここで最初の趣旨を思い出したいと思います。

 それは、『では、一体真・女神転生の何が好きで、何を求めているの?』という疑問です。丁度答えも出ましたね。
 つまり答えは、『レトロフューチャーサイバーパンクを中心とした、レトロな現代伝奇/ポストアポカリプス』が好きで、それを求めているということです。

 よしよし、じゃあつまり。

 これから自分が求めている真・女神転生らしい作品を探すには。

 90年代レトロフューチャーサイバーパンクを中心としたレトロな現代伝奇/ポストアポカリプスを探せばいいって訳ですね!

 ……

 …………生まれ得なくないですか、それ。



哀しいことに、
この先真・女神転生Ⅰのような作品が現れることは無いでしょう。

おわり

出典

WILLIAM GIBSON. The Future Perfect. TIME (ISSN 0040-781X). (2001-4-30). https://content.time.com/time/subscriber/article/0,33009,1956774,00.html (2023-12-3閲覧)


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