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会社の「所有」と「経営」から考える、現実論と理想論の統合

こんにちは。RELATIONS代表の長谷川です。
今回は『会社は誰のものか』という問いについて、経営者を15年間経験してきたいまの私の見解と願いを綴ってみます。

この記事では、日経COMEMOさんが出されていた月間noteテーマ『#会社は誰のもの』を題材に執筆しています。

1. かつて境界線のなかった「所有」と「経営」。便宜的に分けられた世界を絶対視しないということ

「会社は誰のもの?」という問いを投げられた時、「その問い自体が意味を為していないんだよな」というのが率直な感想でした。なぜならば、会社とは、社員のものであり、顧客のものであり、株主のものであり、社会のものでもあるという前提で、”公器”として存在することが理想だと私は考えているからです。

とはいえ一般社会では、「株式会社」に代表されるように「所有」と「経営」は分かれているという支配的なものの見方がされています。弊社は企業向けのコンサルティング事業を提供していますが、顧客への伴走支援をするなかでも、「所有」と「経営」が分かれるという考え方が現実的であることは痛いほど理解しています。
では、なぜ「所有」と「経営」の分離が当たり前だと捉えられるようになったのでしょうか。

ご存知の方も多いかと思いますが、「株式会社」の起源は1602年にオランダ東インド会社が設立されたことがきっかけです。オランダの東インドにおける植民地経営や貿易を独占的に行った会社です。

事業の要となる貿易活動を行うためには、船などの大型設備が不可欠。けれども、当時の船は難破するリスクも高く、全財産を失う商人たちもいたそうです。その損失負担を分担する仕組みとして生まれたのが「所有」と「経営」を分けるという概念でした。設備に出資する人たち=所有者を別で設け、資本を会社の外部から調達しない限り、継続的なビジネスとして成り立たなかったのです。
言い換えれば、”便宜上分けたほうが良かったから分けた”のであり、”もともと境界線はなかった”のだとも言えます。
ところが、さらに歴史を遡ってみるとどうでしょう。その昔、村社会では農作物を村人みんなでつくって、みんなで食べて、という「所有」と「労働」が一体化された時代がありました。そこにはもちろん「所有者」と「経営者」という概念さえありませんでした。

これらの歴史的な変遷をふまえて、「実態として分離していなかった」という視点に立つと、現代はものごとを“分けて捉える見方“が支配的になっていないだろうか?と思います。

この2つの見方を両方持ったときに新しい視点が見えてきます。「所有と経営の責務を明確に分けること」で享受できるメリットと、もう一方の「すべてつながっている」「一体化している」と捉える考えから得られるメリットは、本来両方存在しているはずではないか、という視点です。
そして、それら両方のメリットを享受し合うほうがよりよい世界になるのではないかというのが私の考えでもあります。

2. 目指すのは、現実論と理想論の統合

私が目指したいのは「会社は誰のもの?」という問いに対し、「会社の所有者は存在する」という現実論的な世界観と、「会社の所有者は存在しない」という理想論的な世界観が統合されることです。

言い換えると、会社に関わるすべての人が、それぞれの声を正しく届けられている状態です。具体的には社員、顧客、パートナー、株主、地域、社会など、一連の大きなつながりのなかで起きていることや声がきちんと明らかになっていること。そして、それらの声を全部聴き取った上で、この会社というフィールドにおいて「〇〇を我々の次の一歩として踏み出していく」と明確に表現できている姿が理想です。

私のなかには、分断されたり、つながりが感じられなかったりする状況は避けたいというエネルギーが強くあります。一方で、つながりだけを重んじて留まるのではなく、力強いイニシアチブを持って突き進むことも大切にしていきたい、という一見相反するような想いがあります。
(これは過去に経営者として抱えてきた内面の葛藤や、分社化や仲間との別れを痛みとして経験したことも影響していると思います。RELATIONSの詳しい変遷はこちらのnoteをご覧ください。)

では、その思い描いている”2つの世界観の統合”を、どのように自社の「所有」のあり方として仕組みや制度に落とし込むのか?そこには実に難しさがあると感じています。会社の哲学や価値観を、いかに純度高く現実レベルに反映させられているか?という問いでもあります。

私が経営しているRELATIONS株式会社は自律分散型組織の形態を取っていますが、「所有」のあり方についてはこれまで幾度も向き合ってきました。以前は「所有」と「経営」をできるだけ一致させたいという想いが強くあり、従業員の持株会を社内プロジェクトとして立ち上げ、検討を進めていたこともありました。

今現在は、「所有」までは意図的に触れず、給与や報酬といった金銭面の制度の設計に対して社員が能動的に関与できる状態にしています。背景には、会社への貢献は給与や報酬によって還元してほしいと願う声が多かったこと。また、株式まで設計範囲を広げることによる法的な手続きの煩雑さ、管理面での複雑さの2つが挙げられ、結果として現状の結論になっています。

Workers CorpやCo-ownedカンパニーなども日本に入ってきていますし、持株会でこの領域を展開しているYKKさんはじめ先進的な事例からも学びがあると思っています。これからも形を変えながら模索しますが、2つの対極にある世界観が統合されていく様を、自社の実践をもって体現していきたいです。

3. 多くの人の可能性をひらくために、「会社」にこだわる

働く人、一人ひとりには多大な可能性と、選択の自由があります。もちろん様々な個別事情を抱えて働いていることは前提として理解していますが、ライスワーク的な働き方で会社に所属することには、どうしても”勿体なさ”を感じてしまいます。

いまのままでも一定の満足は得られるかもしれないし、いまの人生を決して否定する訳ではない。けれど、身体が疼くような、内面からパワーが溢れるようなことにもしもエネルギーを注げたならば、そこにはどんな世界がひろがるのだろう。その人の本来の力が発揮されると、世界はどう躍動していくだろうか---。
幸せは多義ですし、最終的に判断するのは個人です。ただ、誰のなかにも存在する「違う人生の可能性」は閉じないで欲しい。
湧き出る衝動に自覚的になった上で会社や仕事を選択できているか?ということを大切にして欲しいです。

一般社会を見ても、”社会から期待された個人”や、敷かれたレールに乗ることに何の疑問も抱くことなく、「そういった人生が幸せなのだ」と多くの人が思い込みすぎているのではないかと感じています。
事実、これは仕方のない面もあります。資本主義社会の支配的な構造の中で会社や職場が運営されているためです。効率性や生産性を重視することが当たり前になっていますし、個人の可能性に対して耳を澄ます余白を生みだしにくい仕組みであると言えます。

弊社では「会社に生命力を」というパーパスを掲げ、コスト最適化と組織活性化のコンサルティング支援を顧客企業に提供していますが、私が「会社」というものにこだわる理由はそこにあります。人の可能性をひらこうと個人に対してアプローチしたところで、すでに資本主義のメカニズムにロックされているなかでそれらを解放することはなかなか難しいと考えます。だからこそ、会社という”仕組みの根源”にアプローチすることで、支配的な構造のロックを解放していく。それが、より多くの人の可能性をひらく鍵なのではないかと信じています。

会社という概念をいまより少し広く定義し直したり、これまでになかった実践例を表現したり、違う角度から会社を見ることができるようになったり。そんな世界を目指してこれからも邁進していきます---。

今日もええ一日にしていきましょう。

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