笛美 著「ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生」感想

笛美さんは「#検察庁法改正に抗議します」のTwitterデモを始めたことで一躍注目を浴びた方。
彼女が広告代理店に入社してからこれまでの十数年?を通して、彼女自身の仕事や婚活にまつわる苦しみ、それを形作っている社会構造への気づき、社会活動に目覚めていく様子などが描かれます。

以下、読んでいない人には意味不明かもしれないけど、私の雑感です。

■筆者は女性なので、その苦しみは女性目線で語られている。けど「男性が悪い」という目線ではなく「社会システムのせいで女性が生きるのは苦しいし、おそらく男性も苦しいのでは」という内容だと感じたし、私はそこに同意する。

■が、その社会システムを「おじさん社会」と名付けた時点で「男性を攻撃している」と感じ、警戒する男性は少なくないだろう。それはもったいないように思う。
(辻田真佐憲氏と西田亮介氏が「新プロパガンダ論」で「プロパガンダ」という呼称について議論していたのと似ている気がする。そのワーディングにした時点である種の人に拒否反応を与えてしまうのはたとえクリティカルだとしても損じゃないか?という)

■「男のせいで女が苦しい」んじゃなくて、たぶんすべての日本人(私は海外に住んだことがないので他の国のことは分からない)が、多かれ少なかれある種の呪いにかかっている。
不登校になると、受験に落ちると、就活に失敗すると、人生が終わる。男は結婚しないと半人前。女は若さにこそ価値がある。
すべての人が、その呪いにかかり、呪いをかけあっている。

■男性の呪いは「男は泣くな」「強くあれ」「感情を表に出すな」みたいなものもあるので、自分の辛さを見つめて呪いを解くことが女性に比べてさらに困難になっているように思う。
自分自身と向き合うのが苦手だから心身の不調に気づかず、見て見ぬ振りをしているうちに取り返しのつかないことになったりする。最近のさまざまな事件を見ていても、この呪いに囚われた果ての事件のように感じることが多い。

■呪いを生む社会構造は男女共通の問題で、ここが変われば誰だってもっと生きやすくなるんじゃないか。男女関係なく、社会構造から呪いを取り去るために協力できるんじゃないか。
と私は思っているので、なおさら「おじさん社会」という呼称が気になってしまった。

■「生きていてごめんなさい」「自分なんかには価値がない」という思いは、性別に関係なく多くの人が感じてるんじゃないか。
私も仕事で褒められたり喜ばれたりした時だけは「自分には価値がある」と思えるので、そこに大きく依存している。
他の人に対しては「価値とか生産性とか関係ない、あなたは存在するだけでいい」って心から思えるけど、自分に対してはとてもそんなふうに思えない。何もしなかった日は簡単に「生きてる価値ない」って思ってしまう。この呪いは死ぬまでに解けるんだろうか。
…あなたはどうですか?

■婚活のくだりで、農家の嫁の現実に触れて「なんだか牛みたい」とつぶやく場面があるが、これは上手いなと思った。
私は農家の家に生まれて、農家の嫌な部分を子供の頃から散々見てきたので、この感じはすごく分かる。
農家にはびこる呪いは半端じゃなくて、家畜も嫁も実子も「システム維持のための道具」としか見なされない。跡を継がない長男とか子供を産めない嫁みたいな存在には居場所がない。
私はそんな場所が大嫌いで18歳で上京したけど、この呪いが本当に解かれてしまうと日本の農業は壊滅してしまうのかもしれない。

■一方、私は一応広告業界のはしくれにいるけど、広告業界に関する記述はあまりピンとこなかった。
これは推測だけど、会社にまつわる彼女の苦しみは「広告業界」というより「大企業」によるものという側面のほうが強いんじゃないだろうか。
私がいたのは十数人の小さな会社で、こういう規模の会社は経営者の考えや資質、あとはクライアントの体質で左右される。だからまともな会社もあれば本当にめちゃくちゃな会社もある。

飲みの席などでハラスメント話を聞くことがあるけど、中小企業より大企業のそれのほうが圧倒的に多く、苛烈に感じた。「まじで令和の時代にそんな会社が存在できるの?」って話は、総じて超有名な大企業だった。
これは会社個々の社風もあるとは思うけど、大企業はより色濃く社会システムの呪いが反映されやすいんじゃないか?という気がする。
農家と大企業は「その構造を成り立たせるために人を道具化する」という意味で似てるのかも、とか思った(私自身は大企業で働いたことがないので邪推です)。

■ひとつ気になったのは、ちょっと大げさに感じる表現が散見されたこと。
上記の農家の嫁になる道が断たれたくだりの「私は地方を、日本の農業を、見捨てたのだ」とか。
その時の筆者は本気でそう思っていたのかもしれない。もしくは本の内容を少しドラマティックにしたかったのかもしれない。
でも個人的にはこういう表現が出てくるたびに筆者の視点への信頼が薄れてしまった。
でもこれは私が冷静で淡々とした書き口の文書が好みだというだけの話かもしれない。

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