アメリカに流出した奥出雲岩屋寺旧蔵の毘沙門天立像
中国山地にある奥出雲町の横田にあった古刹、岩屋寺の山門にはかつて立派な仁王像が安置されていました。この仁王像は奥出雲から流出して、いつしかオランダに渡り、アムステルダム国立美術館の収蔵品として2013年から公開されています(Googleストリートビューでアムステルダム国立美術館の館内も閲覧することができ、仁王像も見ることができるので、以下に埋め込んでおきます)。
そして、岩屋寺の仁王像がオランダに渡ったことがきっかけで2015年、オランダのアーティスト、イェッケ・ファン・ローンさんが奥出雲にいらっしゃるようになり、現在まで奥出雲とオランダの交流が始まっています。
岩屋寺から仁王像が流出し、奥出雲とオランダの交流が始まるまでの経緯については、オランダ在住のジャーナリスト、ユイキヨミさんの記事が、島根県の地元紙である山陰中央新報の記事にもなるなど、徐々に知られるようになってきました。(山陰中央新報へのリンク)
奥出雲の仁王像がオランダにあること、そして、その後の奥出雲とオランダとの交流については、既に多数の記事がありますので、今回の記事ではこれ以上書きませんが、実は、岩屋寺から流出した文化財は仁王像だけではありません。かつて岩屋寺旧蔵であった様々な仏像や絵画、銀貨、古文書などの文化財が、現在は様々な場所に散逸していることが確認されています。今回の記事では、散逸した様々な文化財の中から、毘沙門天立像を取り上げてご紹介したいと思います。
平安彫刻の貴重な基準作例
岩屋寺旧蔵の毘沙門天立像は、像高2メートルを超える大像でしたが、奥出雲から失われて以降、長らく所在が分からなくなっていました。その像の所在が奥出雲に暮らす私たちの知るところになったのは、奈良国立博物館で2020年2月4日から3月22日にかけて開催される特別展「毘沙門天―北方鎮護のカミ―」に展示されることが決まったことがきっかけです。(奈良国立博物館へのリンク)
岩屋寺旧蔵の毘沙門天立像は、奈良国立博物館の特別展が開催された時点でロサンゼルス・カウンティ美術館で保管されており、アメリカから里帰りして展示されるとのことでした。しかも、ファイバースコープを用いた像内の調査によって、保安五年(1124)の年紀が見いだされ、かつ、国を大きく開いて舌をのぞかせている点など、毘沙門天立像には珍しい個性的な表現がなされており、奈良国立博物館にとっても新出の平安彫刻の貴重な基準作例として注目されていました。
アメリカからの一次的な里帰りであり、次に日本に帰ってくる機会があるかどうかもわからないということもあって、奥出雲に暮らす方でわざわざ奈良に行った方、あるいは行こうと計画していた方も多かったことでしょう。しかし、新型コロナウイルスが流行する時期と重なってしまい、特別展が会期の途中で中止となってしまったのは残念なことでした。
なお2024年現在は、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されており、同美術館HPの収蔵品として紹介されています。(メトロポリタン美術館へのリンク)
ちなみに、毘沙門天立像内の書き付けについては、像が奥出雲にあった際にも確認されているのですが「保安4年癸 卯」と記されていたとあり、奈良国立博物館の調査と1年違います。理由はよくわかりませんが、私は、毘沙門天立像を調査できる立場にありませんので、検証はしないでおきたいと思います。
毘沙門天立像に込められた北方鎮護の祈り
岩屋寺旧蔵の毘沙門天立像の特徴については、東京国立博物館研究誌に、特別展展示にあたって調査された岩田先生の論考が掲載されています。論考によると、平安期の京都の仏師が残した作品群とは印象が異なるため、奥出雲で造られた像とみなされています。そして、像の足に記される「院快」の名が、鎌倉時代後期の文永年間に活動した同名の仏師と同一人物であり、さらに新修島根県史に記載される、元寇に際して岩屋寺に蒙古降伏の祈祷を行うよう中央の綸旨があったという寺伝が事実だとするなら、蒙古が襲来した文永の役に際して、北方鎮護の神である毘沙門天の大像を修復し、外敵退散と国家安泰を祈る祈祷を行った可能性があると指摘されています。
文永の役に際して岩屋寺において蒙古降伏の祈祷が行われたとする寺伝は、あながち荒唐無稽ともいえません。というのは、奥出雲にかつて存在した高田寺の縁起を記した高田寺根元録に、国家鎮護などを祈願する聖武天皇の勅願所は出雲国に、仁多郡高田寺、仁多郡岩屋寺、飯石郡禅定寺、神門郡牛蔵寺の四寺があると記載されています。さらに高田寺根元録には2度目の蒙古襲来があった弘安四年(1281)、高田寺に後宇多天皇の父にあたる亀山御院より一通の御祈請の綸旨が届けられ、これにより玄蔵坊は高田寺の裏にある護摩場山において敵国軍舟全滅の大供養を行ったと記されています。高田寺根元録に記される護摩場山について、奥出雲町と雲南市の境に標高749.7mの五万城山(ゴマンジョヤマ)と呼ばれる山があるのですが、地元ではこの山が護摩場山であろうと考えられています。高田寺で敵国軍舟全滅の護摩行が行われたことが事実だとするなら、岩屋寺で蒙古降伏の祈祷が行われていても不思議ではありません。
毘沙門天立像は江戸時代以前、そもそも岩屋寺にはなかった?
実はこの毘沙門天立像、江戸時代以前は岩屋寺にはなく、奥出雲町横田の蔵屋集落にあったとも考えられています。もし蔵屋集落にあったことが事実なら、享保2年(1717)に成立した雲陽誌の蔵屋の項に「毘沙門堂 本尊長六尺五寸行基の刻彫なり、里人伝えて曰此毘沙門は日本三体の仏なり、由来は未知」と記されており、この毘沙門堂の本尊が毘沙門天立像のことを指していると考えられます。
この毘沙門堂は、明治時代まで五穀豊穣、授福の神として崇敬されており、明治3年の祈願文も残っているようです。しかし、明治5年の社寺取調法の施行に際し、毘沙門堂は廃せられ、像は関係の深い岩屋寺に移されたとされています。なお、蔵屋の毘沙門堂跡は享保13年(1728)の建立で、それ以前は、同じく蔵屋集落内の仏谷と呼ばれる丘陵地にあった堂に安置されており、近くの岩屋寺の影響下にある寺が守護していたとされます。享保13年(1728)の毘沙門堂建立の際は、導師岩屋寺の下4ヵ寺の奉仕で入仏供養が行われたようです。
また、毘沙門堂が明治5年まであったとされる場所では、礎石の抜き取り跡が見つかっており、実測調査が行われています。それによると毘沙門堂は、3間四方の建物で柱間は6尺6寸だったようです。ちなみに、この毘沙門堂が享保13年(1728)の建立だとすると、雲陽誌に記載される毘沙門堂は仏谷にあった時代の堂を指しているということになるのかもしれません。
おわりに
今回の記事では、岩屋寺の散逸した様々な文化財の中から、毘沙門天立像を取り上げてご紹介しました。この毘沙門天立像も、アムステルダム国立美術館で展示される仁王像と同様、再び奥出雲の地を踏むことはないでしょう。だからこそ、仁王像がヨーロッパで奥出雲の大使となってくれているように、毘沙門天立像もまた、アメリカで奥出雲の大使となっていただきたいと、密かに思っています。