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ひきこもり。四国のお遍路に挑戦する。
18歳。私は四国でお遍路を行っていました。
当時私はひきこもり生活を送っており、この年の夏場にいったんお遍路に挑戦したものの、徳島市内で人の目が気になってパニックに陥り断念したのです。
このままでは年を越せないと感じた私は、その年の秋に再度お遍路に行くことにしました。
四国のお遍路の概要
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その前に四国八十八ヶ所巡礼の概要を説明します。
まず四国四県に点在する八十八の札所と呼ばれるお寺を周ります。
全長は1200キロほど。歩くとだいたい1ヶ月前後かかります。
また全長を一気に歩くことを通し打ち。
仕事があって時間がないというお遍路さんが、日数を決めて区切ることを区切り打ちと言います。
そして各札所では御朱印帳というものに、スタンプと梵字のサインの様なものを書いてもらいます。これが一回三〇〇円。
これが札所をまわった証になるのですが、一回三〇〇円が八十八箇所になるわけで、総額になると結構な額になってくるのです(300×88=26,400円)。
札所にはツアーの集団お遍路さんも頻繁にやって来ます。
30人ほどがドカッと来て御朱印帳を求めたら、それだけで・・・なんてことを考えると、そりゃ日本全国で「〇〇八十八ヶ所」コースができるわけだ!と納得するのでした。
そのような欲に塗れたことをお遍路中に考えながら歩いていると、ダンプカーが側を通過。
ダンプカーのタイヤが水溜りを踏んで行き、豪快に跳ね上がって水しぶきが私の頭上を襲いかかって全身から水浸しになるのでした。
一瞬何が起きたのかわかりませんでした。
そして怒りが込み上げてきて私は持っていた金剛杖を叩きつけたのでした。
そんな欲に塗れたことを考えているから罰が当たったんだ・・・。
お遍路の装備品
さて怒りまじりに叩きつけた金剛杖は、お遍路をする上での必須アイテムです。
同行二人と書かれた杖は弘法大師空海さんの分身になるのです。
その他装備品としては、白衣に菅笠、御数珠などがあって、これらをフル装備で歩く人もいるのですが、私は本格的な装備品を揃えるのが恥ずかしかったので、金剛杖のみを持ち歩きました。
ちなみに装備品は一番札所の霊山寺にグッズ売り場があるので、そこで買い揃えることが可能です。
装備品に関しては心配性が顔を出し、なぜかインスタントラーメンやボンベや小鍋を当初持ち歩いていました。
そんなものを携帯していたらリュックに入りきるわけもなく、10キロ近くの重みのあるリュックに加えてエコバック に入りきらない荷物を詰め込んで四国の地に降り立ったのでした。
リュックに杖、パンパンなエコバック 。
肩が重みで擦り切れそうだし、両手もしっかりと塞がっている状態。
初日に顔を合わせた他のお遍路さんに「あんた荷物持ち過ぎ!家に送り返しなさい!」と注意を受けるほどでした。
歩くときのルール
巡礼中にはルールがあって、橋の上を歩くときは杖をついてはいけないというものがあります。
弘法大師の空海さんが、四国の地を歩いているときに橋の下で野宿をしていたそうなのです。
なので、橋の上で杖を突いてしまうと眠っていた空海さんを起こしてしまう恐れがあるからというお話がこのルールの由来です。
空海さんの真似をしてみたいと思ったのですが、結局橋の下で眠る度胸が私にはありませんでした。
宿泊施設
大切になってくるのが宿です。
歩き始めた当初はまだ11月だったので野宿は可能でした。
しかし12月を過ぎてくると、寒さに負けて毎晩ビジネスホテルか民宿に泊まるようになりました。
ケチケチお遍路をするために野宿を選択したはずなのに、宿代でこれまで貯めた貯金を切り崩す羽目になっていき、仕舞いには貯金も底をつく始末。
そして最終的に私は親に仕送りをしてもらいながらお遍路を続けたのでした。
野宿となると当時はスマホなどもなかったので、本当にやることがありません。
強制的に日が沈む時間には何も見えなくなってしまうので、19時前には寝袋に入って眠りに就いていました。
そして目が覚めるとしっかりと明け方の6時ごろになっていました。
それだけ体力を消耗していたということです。
野宿をした場所は、札所の境内や通夜堂だけではなく、観光バスの側面にある荷物を入れるトランクの様なスペース(駐車場で眠っているとバスの運転手さんたちが声をかけてくれた)。安芸市営球場の外野スタンド(球場スタッフさんの許可を得て)。無人駅(目が覚めると学生さんたちが私の寝袋を囲んでいた)。そして墓場のすぐそば(ゲゲゲの鬼太郎か?)などでも行いました。
札所の配慮でありがたかったのは、トイレを清潔に保ってくださっているお寺と、トイレに近づくと自動的に灯が点くセンサーを取り付けてくださっているお寺でした。
札所の境内と言っても夜になると真っ暗になるので、灯が本当にありがたかったのです(暗いと怖いからね・・)。
思わず引いてしまう人たち
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私が歩き遍路を行ったのは25年以上前のことです。
当時の四国八十八ヶ所巡りは禊で歩いている人も多く、風変わりな大人たちが菅笠を被って巡礼していました(今もそうなのか?)。
とある建設会社の社長さんが好意でお遍路さん用の宿として事務所を一室開放していました。
雨に打たれて足元がずぶ濡れになっていた私は、たまたまその建設会社を見つけることができ、一晩お世話になることにしたのです。
他にも何人かお遍路さんがいたのですが、その中の一人の男性が服を脱ぐと背中にびっしりと刺青が入っていました。
おうっ・・・。
私は思わず後退りをしました。
今とは異なりオシャレでタトゥーを入れる時代ではありません。
話をするとどうやら「その道」の人だったらしく、足を洗って禊で歩いているようでした。
そして彼は怒っていました。なんと四国に到着した早々に置き引き被害にあったそうで、荷物を一式持っていかれたそうです。
この方の荷物を置き引きするなんて、怖いもの知らずも甚だしい。四国は弱肉強食の世界でした(その時だけ)。
またとある札所で早朝に雨宿りをしていると、中年男性が話しかけてきました。
「お兄ちゃん・・・いくつ?」
サングラスをかけた、ちょっと訳ありっぽいお遍路さんでした。
「もともと○○をやってて、今は辞めて禊で歩いてるのよ・・・学校にも行ってなかったら定時制の高校に通い始めた・・」
見ると小指が無い人でした。
話を聞いていると彼は持論を語り始めました。
「世の中のことは全てヤ○ザが牛耳っとる!!飲食も芸能界も国の治安もヤ○ザがいるから守られとる!そして日本も早く銃社会にすれば良い!自分の身は自分で守らんといかん!」
18歳の私には刺激の強い話でした。
早く雨よ止んでくれ!と思いながら私は彼の持論を聞き続けたのです。
親切な人たち
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基本的に四国の方達はお遍路さんに優しく、接待と呼ばれる施しを地元の人たちがしてくださりました。
施しはみかんやパンや飴などの食べ物を与えてくださることが多かったのですが、中には車に乗せてくださる人もいました。
最初から最後まで歩き通すという固い意思など持ち合わせていなかったので、喜んで私は車に乗り込みました。
これは当時の話になるのですが、四国の各県でもお遍路さんに対する認識は異なるようです。
高知と愛媛の人たちはお遍路さんに優しい印象がありました。
しかし、徳島と香川はちょっと厳しいイメージです。
なぜかというと徳島はまだ巡礼の最初の土地ということもあって、特に志もなくお遍路をしている巡礼者がいて、地元の人たちに失礼な態度をとることがあるそうなのです。
お遍路さんの無礼な態度に嫌気が指している地元の人も一定数いるということでした。
しかし、これが高知になってくると本気で歩いている人しか残っていないので、地元の人たちに変なことをする巡礼者はいなくなるらしいのです。
そして香川はゴールに近いので、巡礼の修行を終えて天狗になってしまい(?)横柄な態度をとる巡礼者が一定数いるらしいのです。
たかだか1200キロ歩いて何故それで横柄になれるのか理解できないところですが、そういう人もいるそうです。
だから巡礼者は地元の人たちに失礼な態度をとってはいけないし、接待を受けたら感謝をしないといけないのだ・・・・なんて、言っているが思い返すと私も失礼なことをしまくっていました。
徳島では民家に一晩泊めて頂いたのに、その後お礼の手紙を送ってないし、住所もわからずに御礼周りもしていない。
また民宿の予約をしていながらも、辿り着けずに夜になってキャンセルすることもありました。
若さ故にしては、あまりにも考えてなさ過ぎでした・・。
お遍路で成長できたのか?
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人間、窮屈な思いをしているときの方が欲が湧いてくるのかもしれません。
お遍路が終わったら、料理を自分で作れるようになろう・・。英会話の勉強をしよう・・。到着したらすぐに求職活動を始めよう・・。様々なやりたいことが思い浮かんできたものです。
しかし、いざお遍路が終わり自由を手に入れると欲望が急速に失われていくのでした。
また巡礼の途中で、お遍路経験者の方に最後まで行ったときに感動して泣いた話を伺っていたので、八十八番札所の大窪寺に到着したら私も号泣するのかなと思って期待していたのですが、全くそんなこともありませんでした。
そもそもお遍路のルートが途中でわからなくなってしまい、いつの間にか裏道を歩いていて、気付いたら大窪寺の本堂に裏側にいたので、盛り上がることもなくあっさりとゴールしてしまったのです。
盛り上がるための演出は大事で、心の準備の無いままゴールしてしまうと呆気なさを感じてしまうのです。
終わったときは感動や達成感より、開放感があっただけでした。
1ヶ月ちょっと歩き続けて変化としてあったことは、地元の人たちに道を聞きまくっていたので、知らない人に話しかけるだけの少々の図太さを手に入れたことぐらいかもしれません。
これは当時も思ったことですが、感動するためにはある程度人として成熟していないと難しいと感じました。
18歳の私には、お遍路を達成して号泣するだけの感性が育まれていませんでした。
だから、私にはお遍路は早かったのかもしれません・・・なんだか寂しい結末です。