未視感と記憶の波打ち際
前回のお返事から、
あっという間に年末が過ぎ、正月を越え、バレンタインデーキッスしたりホワイトデーに降る雨をぼーっと眺めたり、夜にだけ桜を嗜んでいたりしていたら、あっという間に4月になっていました。
お元気でしょうか。
私はというと、「毎日一万歩歩く!」と宣言してiPhoneのヘルスケアとにらめっこしたり、この上ない美しさの半熟卵を作れたりして、嬉々として毎日を過ごしています。
さて、記憶の話をもう少し。
今、行きたい場所に行けなかったり、逢いたい人に逢えなかったり、予定が全て白紙になっていくのを、ひたすらに受け入れ・流していくしかないという状況で。
自分の中に、“そこに居た記憶”や“在った”記憶を持っている事がとても辛い。
あれを全部、なしにしたい。
と、くさくさしていた時、過去に出産を経験した友人が「あの痛みを忘れられるから、また産めるのよ」とさらっと言った一言を想い出したのです。今、書いていてもなんか痺れますね。
そんなに簡単に忘れる事ができない鮮烈な記憶も多々ありますが、ある程度いい加減にしておくのもまた、大事な事のように思います。
記憶とは、日々の些末な出来事にまぎれ、傷がついたり、角が取れたりしてどんどん形を変えていく。それって、波打ち際で見つけるあのガラスの破片みたいです。
あるいは、とびきり良い革を使った小物とか?
憧れますね、経年劣化。
今回、さぼり癖のひどい私がのろのろとタイピングをし、noteを更新したのは、次のテーマが思い浮かんだからなんですね。
これはいいですよ。
光と闇について。
さて、ゆっくりと、泳いで行きましょう。
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