見出し画像

車いす競技は、もっと自由になる。ホンダが「ゼロ」からのリスタートを始めた理由

皆さん、初めまして。本田技術研究所 先進技術研究所で車いすレーサーの開発責任者を務めている池内康です。

車いすレーサーとは、陸上競技用の車いすのこと。Hondaがこれまで手掛けてきたHondaJetやF1マシンなどの技術を詰め込んでいます。Hondaでは2000年に車いすレーサーの開発を始め、2014年に八千代工業、ホンダR&D太陽との3社共創体制のもと「極<KIWAMI>」、2018年に「挑<IDOMI>」の生産販売を開始しています。

さらに2019年には「翔<KAKERU>」を発表するだけでなく、アスリートに寄り添うとともに、競技の発展を目指してさまざまな取り組みを行ってきました。そして現在は、さらなる高みを目指してゼロベースから新たなものを生み出すプロジェクトを、私が中心になって進めている最中です。

そこで今回は、Hondaの車いすレーサーに対する思いや、取り組みの詳細について、紹介していきたいと思います。


車いすレーサーは、もっと自由なものではないか

先ほど、Hondaが車いすレーサーの開発を始めたのは2000年からと書きましたが、私が入社したのも同じ年でした。大学では機械工学を主な専門として研究し、大学院ではヒトを中心に犬や馬といった動物の動作計測などを行いながら「生体医工学」と呼ばれる領域も学んでいます。

Hondaに入社して最初に取り組んだのは、「歩行アシスト」です。大学・大学院で学んだ内容を応用して計測技術を駆使しながら、装着型ロボットの担当として15年ほど活動しました。そして現在取り組んでいるのが、冒頭で触れた通り車いすレーサーです。

Honda「歩行アシスト」

私が車いすレーサーに携わり始めたころ、チームがメインで取り組んでいたのは「KAKERU」でした。KAKERUが完成したのは2019年ですが、その後にも微調整が続き、さらなる軽量化にも取り組みました。その後、開発がひと段落ついたタイミングで、次のプロジェクトとしてこれまでの常識をいったん捨て、ゼロベースで取り組むことにしました。

Hondaの車いすレーサー「翔<KAKERU>」

20年超にわたり車いすレーサーに取り組んできたHondaには、さまざまな成果があります。競技を行うアスリートからも高い評価をいただき、パリパラリンピックでは、「KAKERU」を使っている選手たちが輝かしい成績を残してくれました。しかしながら、競合メーカーも黙ってはいません。近年は素晴らしいレーサーもどんどん出てきています。

また、競技に求められる要素を追い求めていると、どうしても、1つの形と方式に収束してしまいがちで、近年はHondaの車いすレーサーの形状はあまり変化が起きていませんでした。

一方で、車いすレーサーにはF1のような細かいレギュレーションがあまりありません。せっかく自由につくれるのであれば、ゼロベースでより良いものを追求するのも重要ではないか。また、そこで私がこれまで学んできた計測の技術を生かせるのではないか、と考えたのです。

HondaJetにF1…。Hondaの技術が総結集して「最適」を目指す

Hondaとして新たな車いすレーサーを生み出す上で重視したのは、とにかく「最も良い形」を考え抜くこと。剛性や空力だけでなく、使い勝手を含めて、どれか一つではなくて全ての要素で最適なものを目指すことを大きなテーマにしています。

それに当たり、プロジェクトのメンバーには各領域の専門家を集めました。例えばCFRP(炭素繊維強化プラスチック)に関する剛性や強度の要件設定はどうするべきか、その実現方法にはどういったものがあるか、といった課題に立ち向かうためにHondaJetを経験した方々から協力をいただいています。

CFRPの成形や試作ではF1で経験のあるメンバーが協力くださっていますし、さらに二輪のデザインの技術も取り入れて、これまでにない車いすレーサーの形を探っているところです。

現在、Hondaの車いすレーサーは、トップ選手も使っていますがシェアは高くはありません。普及モデルのIDOMIでも値段が100万円近くするため、シェア自体はそう高くありません。お客様が買ってみようと思えるものには、使い勝手や低コストが求められてくると思っていますので、今後はフラッグシップとしてトップアスリートが使うモデルとともに、もっと手に入れやすいモデルの研究開発も進めていく予定です。

データ計測で選手の個性やクセを可視化。安全な競技環境の整備にも注力

車いすレーサーの車両開発以外にプロジェクトのテーマとしているのが、「車いす競技の健全な発展」です。その一環として注力しているのが科学的トレーニングの提供であり、具体的には車いすを漕ぐ際の力の入れ方や方向など、選手のデータ分析です。この漕ぎ力の測定について、Hondaは唯一無二とも言える、独自の技術を持っています。

少し詳細に紹介すると、センサーを内蔵したホイールを装着することで、従来の研究で使用されているような複数のカメラなどの設備を用意せずとも、精緻な動きを測定できます。通常のホイールと比較して重量こそありますが、1時間ほどの準備をすれば計測した時間の1.5倍ほどの時間でデータを分析できるようになりました。

さまざまなセンサーを内蔵した計測用ホイール

これによって、選手のさまざまな個性やクセをスピーディーに分析できます。例えば、車輪を漕ぐときに、必要以上にホイールに触れて速度を失っていないかなどはその一つです。また、左右の車輪に対して均等ではなくどちらかに偏った触れ方をしていないか、つまり「左右差」がないかなども細かく見られます。その他、トップスピードの前後、5サイクルでどのような挙動をしているかなど、選手にとってほんの一瞬の動作でもデータにすることで、さまざまな改善ポイントが明らかになっていくのです。

計測データの一部。赤が接線力、青が法線力、緑が軸力で、左右の車輪への力のかかり方などが可視化される

これまでトライアルの段階では、パラリンピックの金メダリストを含む30人以上の測定を行いましたが、特に左右差に食いつく選手が多く、そういった部分に対する気づきが日ごろの悩みや疑問を解決する手助けになればと考えています。

先ほど書いたように、こうした本格的な計測がトレーニング現場で実施できるのはHondaくらいだと自負しています。だからこそ、次のステップとして、いかに多くの人に使ってもらうかを今、考えているところです。計測が広がれば車いす陸上競技のスキルを科学的に理解することにつながり、プロジェクトのテーマとして掲げている一つである、競技の健全な発展につながっていくと期待しています。

競技の安全な発展という点では、車両とホイールの非破壊検査にも取り組んでいます。カーボン製のものは、外から見ると何でもないのに内部は剥離してしまっている、といったケースがあり、特にハンドリムを強く叩く動きもある車いすレーサーでは、しっかりとチェックすることで安心につながります。

レース前などに非破壊検査を行えれば、カーボンの内部がどれくらい剥離しているのか、その剥離は許容範囲なのかなどが分かります。今後は非破壊検査なども広げていくことで、安全に競技できる環境を整備していきたいですね。

次の目標はLA。物理と真摯に向き合い、先代を乗り越えるものを残したい

プロジェクトを始めてからまだ間もないこともあって、ゴールに対して私たちの立ち位置は、2合目ほど。パリパラリンピックが終わった今、次の大きな目標は2028年のロサンゼルスです。

パリパラリンピックでは、Hondaの車いすレーサーを使う選手が活躍して、6個の金メダルを獲得するなどの大きな成果がありました。このとき選手たちが使用したレーサーは、言うならば私たちが乗り越えるべき「先代」ですから、これからどうやって乗り越えようかと、プレッシャーではあります。

パリパラリンピックで5つの金メダルを獲得したスイスのカテリーヌ・デブルナー選手と

しかし、レースを見ていて気付いた点も多くありましたし、何より選手が活躍すれば、研究開発のモチベーションにもなります。そんな非常に挑戦しがいのあるプロジェクトの責任者として、私が意識しているのは、まず「物理」に対する理解を怠らないことです。

先に述べた漕ぎ力の測定に対する選手との対話を一例に挙げると、グラフなどの解釈で選手たちと議論をする際に重要なのは、分かりやすく端的な言葉で、かつ的を射た正しい説明ができることになります。これを可能にするには、“漕ぐ”という物理を多面的に正しく理解していることが求められます。

私は趣味でスキーをしたりバイクに乗ったりするのですが、そのためにいろいろな記事を読んだり、Web上の動画を見たりしていると、自らの経験に基づいた運動の物理的理解に対して、誤った内容は多いと気付きます。技術者として、そうしたものに惑わされず、選手たちのニーズに対して的確な知識とアドバイスを届けるために、日々の研鑽は欠かせません。

それ以外に、せっかく技術者として活動するならば、自分の技術によって世の中が変わった、と胸を張れるものを残したいとも考えています。ここまで紹介した車いすレーサー関連の研究もそうですし、これ以外の領域でも、私の専門を応用できそうなものがいくつか見つかり始めているので、今後はそちらにも注力していこうと考えています。

最後に、実は車いすマラソンの競技人口は近年、減っています。せっかく関わっているからには、競技を盛り上げたいもの。私とHondaの技術を生かし、多くの人が「車いすマラソンをやってみたい」と思えるような世界をつくっていきたい、そう考えています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!HGRXでは、公式Xでも発信をしています。