世界の空を救った開発者が、次に目指すもの。「ホンダらしさ」が色濃く残る組織は何を生み出すか
noteをご覧の皆さん、こんにちは。本田技術研究所の先進技術研究所で、知能化領域のエグゼクティブチーフエンジニアを務めている安井裕司です。私は1994年にHondaへ入社。エンジンの制御を担当したのち、2016年から自動運転関連を担う知能化領域のエンジニアとして活動しています。
具体的には、AIを活用して、コミュニケーションを通じて意思疎通を図りながら、協調的な行動を取ることが可能な「協調人工知能(Cooperative Intelligence)」を研究し、それを四輪車やマイクロモビリティ、ロボットに活かすことを目指しています。
写真でも着ているように、よく革ジャンを着てイベントに登壇したり、メディアの取材を受けたりしていますが、これはNVIDIAのCEOであるジェンスン・フアン氏へのオマージュ。彼が生み出したGPU(Graphics Processing Unit)によって、世界中のAI活用が一気に進みました。学生時代、移動ロボットの研究もしていましたが、当時GPUはなく、コンピュータビジョンという“AIによる目“など存在していませんでした。目がなくては、ロボットはできない。だから、自動車エンジニアとロボット研究者という2つの夢のうち、私はHondaでの自動車エンジニアを選びました。フアンさんは、そんな自分に諦めたはずのもう一つの夢を叶える力をくれた方。そんなフアン氏への感謝とリスペクトを込めて、黒い革ジャンを愛用しています。
先進技術研究所の中で、知能化領域のチームは転職者が8割ほどを占め、さまざまなルーツを持つ多様なメンバーが揃っています。また、年齢も20~30代が多く、非常にエネルギッシュな組織です。Hondaで受け継がれている「技術の前では人は平等」という精神があります。地位も経験も関係なく、平等に意見を言い、お互いがそれを尊重するということですが、私たちのチームは、出身も年齢も関係なく、自由闊達に意見が飛び交い、周りからは「Hondaらしい雰囲気が濃いね」と言われます。このnoteでは、そんな熱さを紹介していきたいと思います。
就職活動では、Hondaが第一志望じゃなかった
クルマが好きだったので、中学生ごろから漠然と自動車関係の仕事に就きたいと考えていました。学生時代はロボットとエンジンの燃焼研究という2つの研究室に所属し、さまざまな雑誌を読んだり、各自動車OEMの勉強をしたりしている中で、「最も行きたい」と考えていたのは、Hondaではなかったんです。
ただ、職場を見学する機会があり、気になっていた自動車OEMに行くと「思っていたのと違うなあ」と感じてしまいました。というのも、教育がしっかりしているのは良いものの、入社してから5年はしっかりとその教育プログラムをこなしてもらう、と言うのです。やはり大企業ですから、教育が充実しているのは重要です。しかし、当時の私は「5年も好きなことができないのか!」という感覚を持ってしまいました。
そんなとき、ふと目にした新聞に、米国で排ガス規制が始まり、将来的にガソリン車がなくなるのではないか、といった内容の記事を見つけました。また、同じタイミングで研究室の先生に「第一志望の自動車OEMは合わないかもしれない」と相談したところ「君にはHondaが絶対に合うと思っていた」と言われ、OBを紹介してもらうことに。
もちろん、Hondaが世界で初めて米国の「マスキー法」の基準をクリアした低公害エンジンとしてCVCCを開発した自動車OEMであることは知っていましたが、なかなかすごいタイミングですよね(笑)。OBの方と話した時間は30分ほどでした。当時のHondaは経営的に苦しい状況が報じられていたものの、「Hondaは厳しい時期の後には必ず伸びる。絶対大丈夫」と熱く語っていたのが印象に残っています。
思えば当時はオデッセイやCR-V、さらにステップワゴンといった車種が発売する前であり、きっとこれらのヒットを予測していたのでしょう。「Blue Skies for Our Children ~子どもたちに青空を~」というメッセージを掲げて環境活動に取り組んでいる点にも非常に共感しましたし、最終的に「Hondaで働きたい、ここでなら頑張れる」と決心し、選考を受けることにしました。
低公害エンジンの実現に奔走。ロスの青空が大きな達成感に
入社して、配属されたのは第一希望だった低公害エンジンの開発チームです。いきなり排ガス関連のテストをしているところまで連れていかれ、試作段階だった「Ultra Low Emission Vehicle(ULEV、超低排出ガス車)」に対応するデモ車を見せてもらいました。新井さんからは「Hondaの低公害エンジンは燃焼ではなく制御がカギになる。大学でロボットを研究していたようだし、この車の排ガスを制御でもっときれいにし,燃費も良くしてほしい」といわれました。
しかし、ロボットの研究をしていたとはいえ、それをエンジン制御に応用するのは全く別の話です。それでも何とか食らい付こうと、先輩たちに話を聞いて回りましたし、とりあえず数式を見せてもらって、それに似たものを解説している書籍を買いあさり、必死で勉強しました。
そうして量産の寸前までこぎつけたのですが、制御面での問題が発覚し、出直しを迫られることに。当時、先輩たちは不調だったインディカーのチームへ駆り出されており、まだ入社2年しか経っていない私がメインでやり直すことになりました。当時のULEVは適応制御という手法を使っていました。それは、性能は良いものの安定性の維持が難しく、“暴れ馬”と言われる理論であり,耐久テストの長距離クルーズテストをしているときにその“暴れ馬”が突然暴れ出したのです。
当時それを止める理論はなく、1か月間、プログラムを変えては,私と先輩の二人で長時間クルーズテストをしているクルマに乗り、ずっとデータの動きを見て、暴れ馬が出てしまったらまた一晩中対策を考えて、翌日また同じトライをする、これを毎日繰り返しました。その結果、とうとう暴れ馬の調教法が見つかり、HondaはULEV、 さらに一段上のSULEV(Super Ultra Low Emission Vehicle)を出すことができました。
「1カ月、安井のチームでどうにもならなければ、(ULEVとなる)アコードを売るのをやめる」といわれたのは、相当なプレッシャーでしたね(笑)。アコードと言えば、北米におけるHondaの看板車種。その発売が自分の手にかかっているわけですから。その1カ月、どこにいても常にどうすれば直せるかと考えて頭はフル回転。毎日寝た気もせずに先輩と2人で試行錯誤を繰り返し、何とか1998年に世界で初めてULEV認定を取得したアコードが発売となりました。その後、2002年に発表した7代目モデルのアコードは、SULEVの認定も受けています。
当時、出張で米国のロサンゼルスに行ったのですが、飛行機が空港へ下降していくと、空がものすごく汚かったんです。飛行機から下を見ると、どんよりしたグレーの空が広がっていて、街に出ると未燃ガスのにおいが充満している。「ああ、これは排ガス規制がされるのも当たり前だな」と感じたのをよく覚えています。
それから数年後、同じ時間帯の便でロサンゼルスを訪れたときは驚きました。空を覆うスモッグが消えていたんです。青い空が街から見え「自分の仕事が、社会に影響を与えるんだ」と感動した瞬間です。
「燃焼ではなく制御がカギ」の低公害エンジンは、どの会社でも応用しやすい技術で成り立っているのも大きかったと思います。米国エネルギー省の重鎮からは「HondaはCVCCで真っ先にマスキー法を乗り越え、SULEVも他社に先駆けて実現した。それだけでなく、他の自動車OEMでも実現できる手法なのが素晴らしい」という言葉をもらいました。だからこそ、各社が後に続き、ロスにきれいな空が戻ったのでしょう。
これはとても誇れることで、低公害エンジンだけでなく、二足歩行できるASIMOが登場したら、他社からも二足歩行ロボットの技術がどんどん出てきたように、Hondaには突破口を開くアイデンティティがあるのではないかと感じます。
気付けば、その時点でまだ入社から4~5年目。当初目指していた自動車OEMでは、5年間みっちり研修でしたから、もしHondaでなければ、まだそのプログラムの最中だったでしょう。
情熱の向かう先は知能化領域へ
その後、電子制御スロットの開発や船外機、さらにトランスミッションの制御など、さまざまな経験をして、低公害エンジンから知能化の領域へと異動になりました。エンジンで大きな仕事を成し遂げた後、自分の情熱をどこで燃やせるか、探していた部分もあったように思います。
実は、入社したときの配属先希望書では、第一希望は低公害エンジンの開発、第二希望はアクティブセーフティ、つまり安全性能の部署として提出していて、もともと自動運転技術や事故を減らす領域に興味がありました。それだけが理由ではないと思いますが、きっとどこかで誰かが私のことを見てくれていたのだと思います。(第三希望まで書くように言われたのに、2つしか書かない生意気な新入社員でした笑)
そこからは、また新人のような情熱で研究開発に励みました。私の大学時代はAIの第二次ブーム真っ盛りで入りやすい領域ということもありましたし、エンジン制御とクルマの知能化、自動運転は似ている部分もあるんです。ULEV、SULEVともに制御する対象を分析して数式に落とし込み、アルゴリズムを設計していくのですが、これは自動運転も同じです。
その後ほどなくして、先進技術研究所が立ち上がり、2030~2035年に向けた新たなモビリティを検討する中で生まれたのが「CiKoMa(サイコマ)」と「WaPOCHI(ワポチ)」です。
CiKoMaは、都市内を移動するものとして、いわゆる“チョイ乗り”を安全に、かつ人とモビリティでコミュニケーションできないかといったアイデアから生まれたもの。WaPOCHIは、乗り物に乗らなくても楽しめる、歩くのが楽しくなるようなモビリティとして生まれました。いずれも独自のAIである「協調人工知能:Honda CI(Cooperative Intelligence)」を搭載しています。
Hondaには「このために、人生を賭けられる」と思えるものがある
CiKoMaは、茨城県常総市と協力して実証実験を行っています。発表から2年ほどが経ちましたが、これまでに1500人以上が利用し、技術的には自動運転のレベル4と等しい水準を実現できています。WaPOCHIも、当初は人が前を歩き、その後ろをついていく想定でしたが、ターゲットの一つである高齢者のことを考えると、ロボットが先導した方がより安心・安全です。現在は人の前を歩くようになり、簡単なジェスチャーで停止の指示なども出せるようになりました。
こうした、未来の社会に必ず役立つ技術を研究開発しているのが、私たちの知能化領域です。チームのキーワードは、「いつでも・どこでも・どこへでも」。例えば、CiKoMaの自動運転は、高精度地図に頼らない、カメラとAIを活用した方法を採用しているのですが、高精度地図だけでは利用できるエリアが限られてしまい、「どこでも」にならないからです。こうした共通認識を全員で持ち、非常に高い熱量と技術水準で、日々活動しています。
転職者が多い、多様なメンバーと言いましたが、研究開発にバックグラウンドは関係ありません。結局は、これから何をするか、何のためにHondaへ来たのかが重要です。「いつでも・どこでも・どこへでも」とともに、とにかく一部の人だけでなく、世界中へあまねく価値を提供するというHondaのフィロソフィーが、しっかり根付いているのが私たちの組織です。
入社した目的がはっきりしている、そしてHondaが目指すものに心から共感しているから、全員が熱中できる。要は「このために、人生を賭けても良い」と思えるものが、Hondaにはあるんです。
みんなが熱中しているからこそ、まだ100人規模の組織ではありますが、一般的な企業の500~1000人規模の組織に匹敵する仕事、成果は出していると自負しています。ただ、これから人が増えたときにマネジメントで必要な工夫も増えてくるでしょうし、この点は今後の課題だと捉えています。
Hondaの熱が、伝播して広がっていく
最近はオープンイノベーションにも取り組んでおり、代表的なのがCiKoMaで協力いただいている常総市です。市長や役所の方々と話し合いながらさまざまな取り組みをしており、教育現場とも連携して、学生の進路先の相談に乗ったりもしています。
面白いのが、一緒に取り組むごとに、私たちの熱量が常総市にも伝わっているなと感じることです。もちろん最初から熱量が低かったわけでは全くなく、職員の皆さんはとても熱心でHondaと一緒にさまざまな取り組みを進めてくれています。そんな職員の方々が、プロジェクトが進むうちに、パンフレットや動画をとても高いクオリティで内製する姿などを見ると、何でも自分たちでやってしまうHonda流が、“伝染”しているように感じています。
国外では、インド工科大学のデリー校、ボンベイ校との共同研究も始めました。Honda CIの研究とともに、インドのタフな道路状況で、自動運転により一層の磨きをかけていきたいと考えています。この取り組みで感じたのは、熱の“伝染”は社内でも起こっているんだなということ。学生とともに、インドの現地法人で働くスタッフたちも活気を持って一生懸命に取り組んでくれています。
こうした取り組みは広がっていますが、個人的に、一昔前の元気だったHondaらしさが、近年薄れてきているように感じています。だからこそ、その「らしさ」を再び取り戻そうとする先進技術研究所にはこれからも注目してほしいですし、中でも「らしさ」を色濃く残している知能化領域にはぜひ、期待していてください。
私個人としては、とにかく人のため、社会に役立つものを、これからも残していきたいと考えています。私個人の名前が残るかなんてことはどうでも良くて、人生の終わりを迎えるときに「よし、社会の役に立てた」と胸を張れるような仕事を、これからも続けていきます。