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教師が社会を知らないのはヤバいぞ
ねえ、聞いて。
今日話したいのはタイトルの通り。この言葉は、昨年4月に亡くなった私の祖父が、私にしつこく言ってくれた言葉である。祖父母の家に遊びにいくたび、教師になること、大学の話をしていたが、毎回のようにこの言葉をもって釘を刺されていた。
世間的にも、「教師は学校の中にしかいないから世間知らずである」という言葉が広まっている。私自身、この言葉は大っ嫌いである。きちんと「世間」を定義しろと反論したくてたまらんが、受け入れるしかないとも思う。事実ではあると思うから。
でもやっぱり、「世間を知る」って何だろうって思う。すごく閉鎖的で、連携、連携と言ってやっと地域と繋がろうとできるような組織である学校で働く教師が、子どもという限られた受益者しか見えず、際限ない量の先人の知恵を価値提供することを、外から激しく求められる教師が、並に世間を語れるほど、まともでいられるだろうか。「世間を知る」姿とは、知識があること?見識があること?胆識があること?人の持つ情報の持ち方、使い方は様々なはず。一緒くたに「世間を知らない」は無茶では?と生意気にも思ってしまう。
世の中で起こってること、中でも経済状況、外交関係、政権マニフェストなど、「世の中が見えてきやすい情報を見ておくといい」なんていう人もいるが、それは正しいのか?間違いでは決してないけど。一般の労働者におけるマジョリティーであろう「世間を知っている」人は、教師と何が違うのかあまりわからない。世間こそ教師の世界を理解できていないじゃないかと思う。やってることがまるで違うのに、「先生って世間のこと知らないよね」「先生たちってちょっとズレてるよね」って言うこと自体がズレてるように若造ながら感じている今日この頃。だから、関わるって大切な気がする。無知を自覚して探究する姿が、子供にも求めたいことだと思う。だからこそ教師が1番にやんなきゃ。お互いに強みと弱みを知ろうよ。
祖父から聞いた話は、単にものを知らない先生の話だった。聞く限り、ちょっと行き過ぎなくらいにものを知らない人とばかり出会っていたように受け取った。だから自分はそうはならないように取り敢えず振る舞うつもりでいる。しかし、その正解はいつ分かるか分からない。祖父の言葉を胸に教師になるわけなので、学校の中にいながら他業種の友人との関わりを絶たないよう、互いの世の中への感覚を話せるような友達を持ち続けたい。それで少しは変わっていきたいし、変われると思う。
頑張ってみるか。じいちゃん、見ててね。
ヒトリゴトっぽくなくなったけど、聴いてくれてありがとう。