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役に立たないけど、ってやつよ。

ねえ聴いて。

 前回の記事はなかなか長文だった。しかし多くの人に聴いてもらえた。ヒトリゴトを聴いてくれた皆さまありがとうございます。

 今回は自分の話ではなくて。教育について。その中でも学習内容について。初めに申しておく。これは、現行の内容を否定しているのではない。受益者である子どもと提供者である教師のリテラシーの問題である。なにが言いたいかっていうと、よく言われる「学校で習うことは社会で役に立たない」というフレーズってどうなんって話である。

 今学んでいる内容は、ほとんどが、先人の知恵である。子どもたちに求めているのは、「先人が使いこなした道具を、あなたも使える?」ということであると思っている。ぶっちゃけ、微分、積分や理科の実験、社会科の難しい単語などは、モノとしてみれば、現世クソほど役に立たない。例えば微分。一連の動作の中で、「ここの動作してる時ってどんな速さなんだろう」なんて思う奴はいない。変すぎ。ひとつの知識としては、活かしたいのであればそこまで活きないと思う。
 本当に価値があるのは、役に立たないことに向かってみたときに、自分がどう対象に働きかけたかだったり、思考プロセスがどのようなものだったかだったり。自分の姿にあることが学びだと思う。社会で役に立たない知識を教えるな、という人が一定数いる。別に学校は社会人養成所ではないため、役立つことだけでなく、役に立たないと思うことも伝えなくてはならないこともある。しかし、役立たないと今思うこと一つひとつが、我々の住む社会や地球を作ってきた。そういった、一般的に役立たないと思われるものに向かう自分の思考、考え方。それこそが先人が未来を生きる我々に置いていった、法則や公式的なモノではないだろうか。それを「覚えよう」とするなら、小難しいので取捨しやすい。しかし実際は、知識が学びたいものか、学びたくないものかに拘らず、必ず実践が伴う。結果は置いといて、全員がなにかしらの行動を起こす。だから捨てにくい。しかしそれこそに価値がある。先人の知恵を、先人と同じように使ってみる時間が必ずあるからこそ、学ぶ習慣づけや考えを言葉にすることが可能になる。さっき微分を例に出したが、ああいう言い方ができるのも微分を分かるまでとりあえずやってみた結果である。実際私は、微分をとりあえずやってみた結果、どんなものか言葉で言えるようになり、面白さを覚えている。知識自体を否定するのではなく、分かろうとするまでの過程にあるアクションもひっくるめて「役に立たない」と言ってほしい。そこではじめて、役に立たないものであるという正式な認定が下されると思う。

 社会に役立つ知識というのは、あくまで、(自分が望む社会に自分の力で出られたときに使うであろう知識、つまり)社会に役立つ知識であると思う。いざ、自分の欲しかった知識に出会っても、そこへの向かい方、思考プロセスの自覚、知識の運用方法は様々で、それがあってこその知識だ。学校で学ぶ、一見役に立たない知識は、一人の人間として知識に向かう自分のあるべき姿をたくさん示してくれる。だから、役に立たないと一蹴しないで、やってみて。それから役に立つか考えてほしいな。

 ここまで色々話してきた。習うことは役に立たないと言っている時点で、習ったことは役立てられるようになりたいという思いが潜在的にあるということを示しているのではないか。教師側からするとありがたくて仕方ない。知識が知識で留まらず、何かに還元されようとしているのだから。そこをうまく利用して、多様な知識が、多様な子どもの手で確かに運用され、人間を作る礎になれるように働きかける必要がある。こうなったら、教師だけでなく全ての大人の出番だろう。大人が、未来を作る子どものために、学びを作り、学び合える学びの場を共創していけるように。役立たないものの裏に隠れる、誰かに響くであろうなんらかの価値を一つひとつ摘み取っていける大人にならなくては。

 ヒトリゴト、聴いてくれてありがとう。