THE ROAD FOR SHOGO~浜田省吾への道 Vol.3田家秀樹その3
浜田省吾の魅力を、浜田省吾を取り巻くさまざまな人たちと浜田さんとのエピソードトークから紐解く特別企画。8月のインタビューゲストは、浜田省吾の“はじまり”から“いま”に至るまで、すべてをルポルタージュしてきた音楽ライター・作家の田家秀樹さん。3回目は、前代未聞のツアー丸ごと同行レポートのお話。そこから見えてきたものは、、、。
インタビュー:屋形英貴(広島FM)
「お疲れ様でした、良かったですよ」って言って終わっちゃう。終わっちゃっていいのかと思ったんです。
田家
90年に、ロード&スカイの高橋さんに、コンサートツアーを書きたいんで、「浜田さんのツアーに同行させてもらえませんか?」っていう風に お願いしたんです。で、高橋さん、そん時に「大変ですよ」(って言われて)。
それがね、青森から北海道行ったんじゃなかったかな。で、初日の青森まではトラック、 11トントラックの助手席に乗って、前乗りしました。 やっぱあれで、僕、こういう仕事のやり方が全く変わっちゃったんですね。
つまり、音楽を見るっていうことは、こうこういうことなんだ。これをやらないと音楽は語れないんじゃないか。
ミュージシャンは、まあ、やってる人は、年に100本ぐらいやるわけでしょ。50本とか。で、そこに人生かけてるわけで。で、(音楽マスコミ)業界の僕らは、 東京なら東京、まあ、屋形さんは広島、広島のライブ見て、
「いやあ、お疲れ様でした。良かったですよ」って言って終わっちゃう。
終わっちゃっていいのかと思ったんです。彼の人生を共にしなきゃっていうことを、 体で教えてくれたのは、あのツアーですね。
僕、フリーランスなんで、一緒に何かをやった仲間っていないんです。会社の同僚、先輩とか。
いや、あの時のツアー83本、全国回った9ヶ月、同じ旅の釜の飯を食べてるんですよ。
未だにあのスタッフの名前とか思い浮かびますからね。PAだれ、照明だれ、舞台だれ、トランポだれ。それはもう本当に貴重な体験で。
実は一昨年、そのスタッフが亡くなったんですよ。
で、お別れ会があった時に、いや、僕は声がかったんで(参列したんです)。お別れ会には、もちろん浜田さんも見えてましたね。 そういう、こう、家族以上の付き合いがあるのがあのツアースタッフですね。絆がある。
「ツアーはスタッフのもんだ」っていう風に彼もよく言ってましたからね。「俺たちは歌わせてもらってるんだ」って。
これはもうトランポの人が言ってましたけども。「俺たちが楽器を運ばなかったら、コンサートなんかできねえんだぜ。」 それを、ステージに立ってるミュージシャン、もちろん浜田さんはその筆頭で、ミュージシャン全部知ってますから。
だから会館出る時に、「お疲れ様でした、よろしくお願いします」って言って、(浜田さんは)会館出てましたからね。ま、今はちょっと浜田さんの位置も変わってきたし。疲れ方も当時(と同じ)じゃないんで、 もっと別の扱いになってますけども。当時はやっぱり、まあ、会館出るときには、もうスタッフにお辞儀してから出てきましたからね。
「ツアーはスタッフのもんだ」っていう風に彼もよく言ってましたからね。「俺たちは歌わせてもらってるんだ」って。
屋形
じゃあ、そんなお話をちょっとお伺いしたところで、1曲セレクトしていただきたいんですが。
田家
えっとね、ON THEROAD 90で1番忘れられないのはね、「BASE BALL KID’S ROCK」。
みんな、ステージ上でエア・ベースボールをやって。 あれは僕もね、ウェーブやりましたから。