イマココタイムのすゝめ
前回はバリに行ってきたことについて書きました。
誰にとってのサステナビリティなのか?という疑問を感じたあの日。
人間中心が前提となる考えに疑問を感じた旅でしたが、人間中心主義の上に成り立つ、自由主義についても疑問を感じました。
「自己実現のサポートがしたいです」
僕が、これからずっとやっていきたいことは、「人々の自己実現をサポートする」ことです。
みんなが意思を持って、やりたいことや、なりたい姿を追求するのって、ミクロ的にもマクロ的にも良いことだし、そのストーリーに関われるのって楽しいと思ってきました。
自由主義って、めっちゃざっくりとらえると、個人個人の自由意思を尊重し、それが結果全体的にも良いという考え方なので、僕の考え方にも近い話でした。
自由意思って、選べるの?
ただ、その自由意思によって行動を選択できますが、そもそもの自由意思を選ぶことはできないのではないか、少なくとも限定的ではないか、という疑問を持ち始めました。
今、自分がどんな偏見にとらわれているか。
どんな宗教的な考え方に染まっているのか。
どんなメディアを見て、何を真実と信じているのか。
さらに、追い打ちをかけるように、テクノロジーがどんどん、僕たちの脳みそをハックしてきます。
育ってきた環境や、現在の身の回りの状況によって、考え方がかなり規定されがちである、しかもそのこと自体を意識し続けることがかなり難しい、と感じました。
何にとらわれてるのかを、知る
だからこそ、今は自己実現の前に(or と一緒に)、自己認識ではないか。
自覚し、ときに、その考えから脱皮する必要もあるのではないか。
変化の激しい時代では、不必要に、その考え方・物語に固執するのは、足かせとなってしまう、そんな予感もしてきます。
イマ・ココを意識する
丁寧な自己分析や、他者からのフィードバックは、自己認識をするうえで大事です。
こうやって思考を言葉にしてみるのも、良いなあと感じます。
しかし、そもそもどうすれば自己認識をしようという意識が頭に残り続けるのか?
上記を習慣化するのも良いと思うのですが、僕はそれ以上に、イマココタイムを持てるかが大事な気がしてます。
呼吸に集中してみる、自分の今の体の動き・感覚に集中してみる、すると、はめ込まれたり、のめりこんだりしている枠組みから一歩引けるような感覚があります。
人によってやり方は違うでしょうし、もしかしたらスポーツをすることかもしれないし、芸術を眺めることかもしれないですが、このイマ・ココに集中する時間が大切なのではと感じたのでした。