孤独のなかでたしかなこと「Betray My Heart」
前回の記事から引き続き、”妄想”というワードがよく出てくるので、最初に簡単に定義を引用しておきます。
妄想というのは、内容が非合理的・非現実的で訂正不能な思い込みのことです。かんたんに言うと「一般的な常識で考えれば明らかにありえないことなのにも関わらず、本人がそれを信じて疑わない思い込み」のことです。
僕の妄想について最も若い記憶は、僕が保育園の年中クラスだった12月のある日の会話です。当時、僕たちの関心は専ら、間近に迫ったクリスマスであり、中でもサンタクロースにどんなプレゼントをお願いするのかで話題は持ち切りでした。5歳の僕が何を欲しがったかはもう忘れてしまいましたが、近所に住んでいて仲の良かったともだちと、プレゼントの話をしていたときでした。
「クリスマス、サンタさんに何たのむん?」
『3DS(携帯ゲーム機)にする!』
「ええな。おれもほしいな。サンタさんってプレゼント何こまでくれるんじゃろ?」
『去年のクリスマス、はよ目が覚めておかあさんが枕もとの靴下にプレゼント入れるの見てしもーた』
「え、サンタさんは?」
『ほんとうはサンタさんっておとうさんとおかあさんなんで』
「…!!」
サンタクロースの存在を信じていた自分にとって驚愕の真実でした。でも言われてみれば、家に煙突は無いし、クリスマスツリーもプラスチックだし…サンタさんの正体はお父さんとお母さんなのか…
(この世界は僕の知らないことだらけで、毎日通うこの保育園の先生たちもお父さんもお母さんもみんな僕たちに嘘をついているんだ。僕たちは何でか分からないけど、洗脳されているんだ。僕たちは大人たちの実験か何かに使われていて、僕たちはいつかもっとひどいことをされるのかもしれない。たしかなことなんて何もない…)
こんな体験に現在の自分が感じる果てしない孤独感の原因を背負わせるのは暴力的だと思われるかもしれませんが、僕が世界に対して絶望的に信頼感を欠如するきっかけ、一つの劇薬のようなアイデアを得た体験なのは確かです。
僕は果てしない孤独を感じます。僕は”ありのままの自分をさらけだすフリ”ばかり上手くなってしまいました。本当は心の奥の途方もない孤独をお互い認め合いたいのに、その手前の手頃な告白で相手をとりあえず納得させて良好な交友関係を演じるのは、まるでトカゲが尻尾を切って囮にして逃げるようでした。そんなことを繰り返しているのでなんの疑いもなく親友と呼べる人物はおろか、友だちと呼べる人もいません。恋人は相手に承認してほしいという気持ちが先行して自己顕示になったり依存したりしてしまい、関係性を腐敗させてしまって、別れる。自分の話を親身になって聞いてくれる人はいますが、信頼するのが恐怖です。自分は5歳のクリスマスまでのように洗脳されていて、実は皆僕の幸せなんて望んでないんじゃないかと被害妄想に打ち震えることもあります。自分に人生のほとんど全てを捧げてくれた親でさえも、一緒にいて心が安らぐことは長く続きません。自分の心の深淵にある宇宙のような無限の真っ暗な孤独を誰にも表現したことがないんです。
たしかなことを世界に見つけるのは難しいけれど、自分に正直でいたいという気持ちだけはいつもたしかなことです。
そういう自分の真っ直ぐさを今は頼りに、自分の心を裏切らないで生きていきたいです。