感謝が世界を明らめる「Ain't Got No/I Got Life」

前回の記事で僕の孤独について触れました。自分の生きる世界に対する不信感、不安感。対人関係において、疑いを抱いた瞬間から自分が立っている現在という瞬間の底が静かに、吸い込まれるように、どこまでも崩れていく感覚。人間不信といえど、どうでもいい人に騙されて金品を盗られたり、欲望の為に裏切られたり、悪戯に嘘をつかれたり、ということを恐れているんではないんです。
自分の「恥」をあざ笑われるのが本当に怖いんです。「恥」に目を背けられるのが苦しいんです。血から汗、涙や糞尿、精液や涎までも纏めて結晶にしたような恥の塊が心の奥には在って、仲良くなるにつれて自己開示としてほーんの僅かに相手に見せてみる。それを相手と親密になればなるほどもっと本質を見せたくなる。理解してほしい、受け入れてほしいと期待してしまう。でもそれってすごく破廉恥で暴力的な行いで、見る者が目を背けたくなるのも逃げ出したくなるのも当然だと思います。相手と本当に心の底から信頼し合いたいがために「恥」を曝け出すのに、待っているのは、相手がその場から去るか、受け止めようとした相手が深く傷ついてもう傍にはいられなくなるか、どちらにせよ自己矛盾を生むんです。
悩んだ挙句、「恥」を曝け出す場所は創作の世界に任せようと諦めました。対人関係では、諦めの境地で全てに感謝することにしました。相手への期待が僕を深く傷つけるのだから、最初から最後まで何も期待せず、ただ感謝するということです。相手が自分にくれたものに感謝する。楽しい思い出も辛い思い出も、自分を苦しめる妄想さえも、相手が自分の人生に彩りを添えてくれたのだと感謝する。
相手が陰では自分のことを嘲笑っているのではないかという疑いは終わりのない地獄の門を開きます。だから相手が本心では自分のことをどう思っていようと、自分がどう感じたかということにだけ集中するのです。
「相手は自分の不幸を願い、陰では自分を嘲笑っているかもしれないが、それでも自分に幸せらしさや楽しさを感じさせてくれた。幸せで楽しかった一時をありがとう。」
「相手は自分をこんなにも不安にさせる。心をかき乱してくる。しかし、私はそのおかげで自分の弱さをまた一つ知り、少し成長できる。試練を与えてくれてありがとう。」
我慢しているのではなく、本気でそう思うようになりました。すると、世界は信じるか信じないかに関わらず、たしかなものなんだなってわかりました。「感謝を大切に」なんて教えを自己啓発本などで見たりすると、そんな取って付けたようなポジティブな感謝なんて欺瞞でしかない。クソ食らえと思っていたんですが、ネガティブでもなんだかんだ感謝に行き着くなんて不思議ですよね。

自分の心の真っ直ぐさ、直感・直観、それに従えば与えられているものは必ず何かあって、今この瞬間にある自らの人生に感謝できれば、諦めるということの本来の姿が浮かび上がってくるような気がします。


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