累計課金額200万オーバーの僕が思う「無課金は客ではない」論の是非①総論編

「基本無料」を謳うゲームが流行し、日本においてはスマートフォン媒体を基調とするゲームの基本スタイルとなってから随分と久しくなった。
一方で、積極的に課金するユーザーと無課金ユーザーの間の意識の違いや軋轢、生活に支障をきたす程の課金中毒者を生み出すなど、買い切りのゲームにはない「基本無料」ゲーム特有の問題が、歴史を積み重ねるにつれて顕在化してきたのもまた事実である。
ここでは、改めて基本無課金戦略の抱える利点や欠点を整理するとともに(総論)、デジタルカードゲーム(及び対人ソーシャルゲーム)というジャンルにおける同戦略の在り方について論じていきたい。(各論)。

はじめに:筆者のゲームへの課金環境


まず、この論点でものを語る誰もが、一定のオーディエンスから「自身が課金/無課金だから」といった属人的な論であると見なされる傾向がある。
それはある程度避けられないことではあるものの、此度の記事が単なるポジショントークに収まっていないことの証左として、筆者のゲームへの課金歴を開示する。
・モンスターストライク 50~60万円程度
・ハースストーン 20~30万円程度
・シャドウバース 75万円程度
・ドラゴンクエストライバルズ 10万円程度
・MTGアリーナ 8万円程度
・遊戯王デュエルリンクス 5万~6万円程度
・ライバルアリーナ 8万円程度
・デュエルエクスマキナ 6万円程度
・TEPPEN 1万円ほど
・その他、黒猫のウィズなど雑多なゲームいくつか 
計210万円ほど
無論、各ゲームの重課金者へは遠く及ばない数字であると自覚はしているが(課金額で殴る意図もない)、所謂「無課金勢」が発した意見であると見なされることは、流石にないだろう。

総論1:情報化社会の中の自由市場経済


①「顧客にとって高額であることは悪である」
基本的に、顧客にとって支出は多ければ多いほど悪である。中には、金を使うこと自体に意味を見出したり、価値のあるものへ支出ないし保持することをステータスに感じる人もいるだろうし、それ自体を否定するつもりは毛頭ない。
ただ一般的に、同じクオリティの商品であれば、顧客にとって安ければ安いほど都合がよい。
顧客は自身のために金を払うのであり、企業のために金を払うのではない。
これは、資本主義、自由市場経済の原則である。

②「企業にとって儲からないことは悪である」
一方で、企業にとって儲けは多ければ多いほど、当然ながら善である。
しかし、価格が不当に高く、また品質が悪い商品は顧客に選ばれない。
そこで企業はいかにして他社よりも安く、品質に優れた商品を売り出すか(またはそのように見せかけるか)を追求しなければならない。
これもまた、資本主義、自由市場経済の原則である。

③情報化社会がもたらした二つの影響
インターネットの発達とともに近年急激に進んだ情報化社会は、自由市場経済を構成する生産者と消費者の関係に、二つの大きな影響をもたらした。
一つ目は「消費者が賢くなったこと」である。
ここでいう賢いとは、消費者個々の判断能力が高まったというわけではない
情報伝達が容易になったことで、顧客にとって良い商品の情報は急速に共有されることとなった。またそれは同時に、当然顧客にとって都合の悪い商品の悪評は瞬く間に広がることも意味する。
よって企業は、顧客にとって都合が悪いと思われる商品を以前よりも売り出しにくくなった。

二つ目は「生産者の苦労が可視化されるようになったこと」である。
顧客間の情報共有は企業にとっては厳しい状況を生み出したが、情報化社会は売り手にも発信の場を提供した。
これにより今までは消費者に直接伝わることのなかった企業の事情や苦労なども共有されることとなった。
ネットを利用する世代が広がったことや、学生時代からネットで意見発信を行っていた者が社会に触れるようになったことにより、その機会は年を追うごとに増加していった結果、
「消費者は生産者の都合も考えよう」
という世論が形成され、インターネット上においては広く支持されるようになった。

総論2:「ソーシャルゲームにおける基本無料戦略」


①「ソーシャルゲームにはユーザー数が必要である」
インターネットを通じて他人とつながることを基本とする所謂「ソーシャルゲーム」が発展していく際、当然他社との間で客の奪い合いが起きる。
ただでさえ消費者が「賢く」なった世の中で、インターネットを媒体とする商品は、より厳しい目でユーザーから比較されることは避けられない。
そして、ユーザー数を抱えられなければ他人と繋がることを前提とするソーシャルゲームの寿命は当然縮まる。
しかし、メインターゲットである若者の使える金は限られている中で他社のゲームよりも優先して金を払わせることは容易ではない。
そうして、基本無料というスタイルが確立された。(という認識だが、誤りがあれば訂正する)
※日本における元祖はメイプルストーリーとされているが、ここではPC→ケータイ→スマホとハードの進化につれてゲーム性重視のタイトルが増え、より競争が苛烈となった2010年代の話を扱っている。詳しくは 、

https://ja.wikipedia.org/wiki/Free-to-play
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%A0%E8%AA%B2%E9%87%91
あたりを参照のこと。

これによりもたらされたメリットは計り知れない。
・将来的に金を払ってくれる可能性があるユーザー数を事前に囲える
・金を払うユーザーへソーシャルゲームとしてのプレイ環境を確保することができる
・無課金でライトに遊ぶユーザーにより他社との奪い合いが緩和される

等がその例として挙げられるだろう。

一方で、基本無料とすること特有のデメリットも存在する。
・プレイヤー数=利益とならないため、売上の目測が立てづらい
・大多数のプレイヤーが無課金であれば、利益を上げられない

これらを解決するための手法として、初期に流行したソーシャルゲームでは、いたずらに射幸心を煽り、一部の課金プレイヤーに極端に負担を強いるような仕組みが実装されていた。
中には「フルコンプガチャ」など、社会問題化し、法規制されるに至ったものもあった。


②ユーザーフレンドリーへの転換
狙いの商品を手に入れるためには異常に高額になる可能性を持つ課金システムは、情報化社会の中で瞬時にその危険性が認知された。
また、基本無料が特別なものではなくなり、他社のゲームと差をつけるために、よりユーザーに選ばれやすい施策を企業は強いられることになった。
具体的には、
・天井の実装
・ゲーム内アイテムの大量配布
・俗にいうリセットマラソンの簡易化や無制限化

等である。しかしながらこれらは、プレイヤー数の増加ないし減少防止の効果はあれども、直接利益をもたらすものではない。
故に、既に利益の確保に成功しているゲームほど手を出しやすく、後発のゲームが顧客を確保するためには、それ以上に過剰に新規ユーザーにフレンドリーな施策を実施せざるを得なくなる。

③確立された二つのビジネスモデル
多くのソーシャルゲームが生まれそして死んでいき、うず高く積まれた屍の上に成功したのは、大きく分けて2つのビジネスモデルだった。
・無課金でプレイすることは難しくないが、高額課金による旨味も大きいゲーム
・無課金でプレイし続けることは難しいが、必要課金額が高くないゲーム
大体の傾向として、協力してクエストのクリアを目的とするゲームでは前者が、DCGをはじめとする対戦ゲームでは後者が主流になってきているように見受けられる。
札束で殴り合う対戦ゲームは、日本においてはメインストリームから遠ざかりつつある。

④それでもソーシャルゲームはコストが高い趣味である
企業も痛みを伴う様々なユーザーフレンドリーな施策が講じられている事実を認める一方で、ソーシャルゲームという趣味のコストはなお高いことは忘れてはならない。
そのように考える論拠は以下の通りである。

1.ソーシャルゲームは買い切りのゲームと違い定期的にコストがかかる
買い切りのゲームに比べ、継続していく場合のコストが高いという批判は、数年前までは目立っていた。但し、この点単体で考えるならば、買い切りのゲームよりも定期的なアップデートやメンテナンスにかかる企業側のコストを鑑みれば、コストが継続的にかかるのは致し方ないものであろう。

2.ユーザーの資産が担保されない
勿論、ソーシャルゲーム以外にも世の中には継続コストがかかるものは数多い。
本記事で触れるカードゲームを始め、釣りやバイク、その他諸々のコレクションやモノづくりなどもそれにあたる。ソーシャルゲームと上記他の継続コストがかかる趣味の間に存在する決定的な違いがある。それは、対価を払った商品の資産価値が、サービス終了と共に無に帰す点である。
ソーシャルゲームのデータは基本的に他人とのトレードが不可能で販売が禁じられており、サービス終了時も課金額の返金は行われない。(これらは全て基本的に、であり一部例外があることも認識している)言わば胴元完全優位の趣味である
よって、サービス終了と共に今までの投資は無になる。手元にモノが残らない以上ローカルに遊ぶこともできない。文字通りの無である。
この点に対しても、ソーシャルゲーム台頭当初は批判も多く見受けられたが、近頃はだいぶその勢いは落ち着いてきただろう。
ソーシャルゲームへの課金率も40%を超え、課金ユーザーの中でのボリュームゾーンも1万円から5万円の間とされていることからも、ソーシャルゲームという商業スタイルは、日本においては市民権を得たと言える。
https://lab.testee.co/2018gameapp-result
https://news.mynavi.jp/article/20180205-581073/
より

3.以上2点の条件を満たす他の趣味に比べ継続コストが非常に高い
継続的にコストがかかり、手元にモノが残らない趣味となると、一般的にはカラオケやボーリングといった遊戯が挙げられるが、ソーシャルゲームはそれらに比べて非常に高い。(提供側の開発コストが高いのも承知だが、あくまで消費者目線として)
世にあるあらゆる娯楽の中でもジャンルが確立されてから日が浅いソーシャルゲームの適正な価格というのは、実際のところ自分にも解らないし、これからも変動していくだろう。
しかしとりあえず現状は、より安く、消費者にとって得な製品に見えるかを競い、ユーザーの確保を優先する方向に向かっているように見受けられ、その状況はもうしばらくは続くだろうと予測する。


総論3:「無課金は客ではないのか」(一旦の結論)


さて、長い長い前置きはここまでとして、3行でまとめると
「基本無料は好意ではなく戦略である」
「ユーザー数の確保がその戦略により得られる恩恵である」
「ソーシャルゲームは未だなおコストが高い趣味である」

というだけの内容である。
これらを基に、
「無課金は客ではない」「無課金は運営に文句を言える立場ではない」
という意見に対する筆者の私見を述べよう。
まず、「無課金は客か否か」については、間違いなく客として数えるのが妥当であると考える。
企業は好意で遊び場を開放しているわけではなく、それが本意であろうとなかろうと戦略の一つとして基本無料を採用している以上は、そこにいるユーザーは全て客である。
当然、課金額が多いユーザーほど運営への貢献度が高いことは間違いないが、我々はあくまで商品に対して対価を払っているに過ぎない。たとえ無課金でできるゲームだったとしても、課金をすることによって得られる利益(ゲーム内の資産や利便性)に価値を見出しているか、そうでないかの違いがそこにはあるだけだ。
サービス提供者への好意として金を払っているつもりなのであれば、それは単なる驕りである。金を払わなくても受け取れるサービスに金を払うことを善とするのならば、運営が困窮しているらしいWikipediaに募金でもしてきたらどうか。(私はしてきた)
他の利用者との差別化は全くされないが、丁寧にもお礼のメールが受け取れる。

では、「無課金は運営に文句を言うべきではない」のか。
勿論、人の気持ちとして対価を払わず権利ばかりを主張する者を浅ましいと感じることは否定しないし、私自身もそのように感じることは日々多くある。
しかしそれはあくまで気持ちの問題であり、先ほども述べた通り我々は任意に商品への対価を払っているに過ぎず、発言権を買っているわけではない。(出資をしている株主ではない)よって、課金額によって発言の権限に差異は生まれない。(外観的な説得力には差異は生まれるが、それは正しさを担保しない。)

例えば、ゲームバランスに対する指摘をする際にその発言者の課金額を考慮することなくそれが客観的に正しい指摘なのかが問題となるし、「他人より多く課金をしているのだから忖度して勝たせてくれ」などという理の適わぬ要求は通るはずもない。
最も課金ユーザーたちからのヘイトを集め、「無課金が文句を言うな」という指摘を受ける意見として、「課金プレイヤーはずるい!無課金でも資産をもっと得られるようにしてくれ」という趣旨のものがあるが、それについても主張が誤っているのであり、発言者の属性が誤っているわけではない。
勿論そういった理の通らぬ発言へ批判を加えることも自由であろうが、それに留まらず
「無課金は客ではない」「無課金のくせに」とまで付け加えるならば、それは論への批判ではなく属性への批判であり、正当さを欠く。同じ「お気持ちの表明」の土俵まで自らを落としていることへの自覚はないのだろうか。


なお、大抵その種の発言の主を見ると大半は学生である。あくまで個人的な意見ではあるが、私は、絶対有利な立場の大人が寄ってたかって、放置しておいても良いような手に取らぬ未成年の幼い主張を叩く様を、
「みっともない」「大人げない」
などという言葉以外で形用する術を知らない。

もし課金額によって発言の正しさが決まるのであれば、私よりもシャドウバースに課金していない人間の主張はすべて私のそれよりも無価値であるし、同様に私はこれから先自分より多くのお布施をしている者へ反論できずに生きていかなければならない。
そんな馬鹿な話があるものか。

そして、無課金ユーザーの課金ユーザーへの理不尽な意見と、課金ユーザーからの無課金ユーザーを委縮させる意見とを比較した場合、そのゲームのプレイヤー総数を減らす可能性がより高いのは後者であると言える。

何故ならば、そのゲームに資産を投じている課金ユーザーほどゲームを辞めるまでのハードルは高く、一方で無課金ユーザーはたとえ辞めても無になるのはかけた時間だけであるからだ。
よって、自身が「良い顧客である」と信じて疑わぬ者による無課金層への攻撃は、かえってプレイヤーを減らし、そのゲームの寿命を縮める原因にすらなり得る、公益の観点でも何ら理のないものである。(勿論、それとは別に過度なネガティブキャンペーンはどの立場からであれユーザー減少を招くので好ましくはない。)

では、ユーザーにとっての利とは何か。あくまで筆者の考えではあるが、それは

「サービスの質がより高く保たれ、サービスの提供がより長く続くこと」

であると信じる。
先に述べた通り、ソーシャルゲームはその特性上、サービスが続かなければ資産は担保されず、かけた金や時間はサービス終了と共に無に帰す。中には金や時間を持て余し、刹那的に楽しめれば良いとするユーザーも存在するであろうが、多数のユーザーにとって貴重な金と時間をかけた結果は、長く保持されることを願うものであると推測することは容易い。

であるならば、我々ユーザーに出来るゲームの寿命を延ばすためにできることは、
即ち「金を落とすこと」「ユーザーを増やすこと」であろう。しかしながら、一人のユーザーの投じることができる金や引き込むことのできる友人には限りがあるし、その総数は個人により大きく異なる。ならば、個人ができる範囲でできることをやればよいのだ。
金を落とさずとも、周囲の人間をユーザーに引き込むこともまた、回り回ってユーザー全体への貢献となる。実際、私をシャドウバースに誘った仲間はほぼ全員が無課金だったし既に引退同然という有様だが、私はそれなりの額を投じるプレイヤーになったのである。
また、私が誘った人達はほとんどが無課金でコツコツと楽しんでいたようだが、中には金銭に余裕が生まれてからは課金を行うようになった者もいると聞く。
そして、そういったユーザーの行動は好意によってのみ起こされ、維持されるものではなく、それをするに値する商品を企業が提供することが前提となるのだ。ユーザーは商品が欲しいから買うのであり、相手が欲しいから人を誘うのだから。

なので我々ユーザーは、企業がより魅力的な商品を提供するように監視し、意見を述べる権利を同等に所有しているのである。話は戻るが、その意見は理と利があるかどうかによって正否を判断されるべきなのであり、その判断は胴元たる企業に委ねられている。
それを資産を投じた度合いや所謂ランクなどによって、ユーザーが勝手に断罪する風潮は、悪しく、滅ぼしていくべき文化であると、私は信ずるのだ。

思うに、このような風潮が生まれた背景には、前述した「売り手のことを思いやるべきだ」という意識が広がったことの存在が、どうにも大きいように感じる。それ自体は素晴らしい理念であろうが、安易に消費者の意見を理不尽なクレームであると断罪するところまでその意識は肥大化しているように、私としては思えてならない。(これも語り始めると長くなるので軽く触れるに留めるが。)

想像していたよりも大幅に文章が長くなったため、此度は一度ここで切らせて頂く。
近日中に、カードゲームとDCGにクローズアップした課金システムの在り方について、また書かせて頂くことにする。


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