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海外大への進学を目指す私が、フリーターにならざるを得なかった理由
私は、当時中学生だった5年前からドイツへの正規留学を目指している19歳のフリーターです。2024年に日本の高校を卒業したのち、現在はアルバイトと勉強を両立する生活をしています。
先日の初投稿では自分のために書いた文章をその延長線で投稿していまいましたが、今回改めて、フリーターという現状に辿り着くまでの軌跡を綴ってみました。
何も特別じゃない、平凡な19歳の等身大の苦悩を覗いていってくださると幸いです。
国際科の高校への進学と挫折
ドイツの大学を目指すにあたって、当初はドイツ語を使用した進学を考えていました。当時中学生の私に言語を独学で身につけるといった経験があるはずもなく、真っ先に選択肢に上がったのは第二外国語を履修することができる高校でした。もとより公立高校への進学を目指していたため、この条件に当てはまる居住地の神奈川県内の学校は二つ。
それが、神奈川総合高校と、私の母校である横浜国際高校です。
国際バカロレアという選択肢
横浜国際高校は国際科のコースのみを保有しており、その中でも一般の国際科(通称:国際科本体)と国際バカロレアコースの二つの選択肢がありました。
国際バカロレア(IB:International Baccalaureate)は、1968年、チャレンジに満ちた総合的な教育プログラムとして、世界の複雑さを理解して、そのことに対処できる生徒を育成し、生徒に対し、未来へ責任ある行動をとるための態度とスキルを身に付けさせるとともに、国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を与え、大学進学へのルートを確保することを目的として設置されました。現在、認定校に対する共通カリキュラムの作成や、世界共通の国際バカロレア試験、国際バカロレア資格の授与等を実施しています。
国際バカロレアというのはごく簡単に言うと、世界共通の高等教育機関として認められており、一定の成績を収めるとさまざまな国と大学で大学入学資格として認められる、グローバルな人材を育成するカリキュラムです。
国際バカロレアの教育は生徒の主体性を重んじるいわゆる構成主義の概念に基づいており、プレゼンテーション、ディベート、ディスカッションといった探究学習を主としていました。
中学時代の私は(今もですが)自分の興味分野は学問に近いところにあって、勉強していてそれぞれの知識が繋がる瞬間は大好きだけれど、地道な座学は嫌い、そんな生徒でした。「ただ努力ができない」というのも否定し難い事実ですが、このカリキュラムであれば理解せずままただ暗記するのが許せないような私の特性も活かせるのではないかと思い立ち、このコースに入学することを決意しました。
そびえ立つ英語力の壁
国際科であった母校に進学するまで、私は海外と何の関わりも持たずに生きてきました。
私の父は7年ほどアメリカに住んでいたことがありましたが、その事実すら自分が本格的に留学を目指し始めた15歳の頃まで知る機会もありませんでした。それほどまでに私の生活には父の海外経験は影響を与えていなかったのです。
中学入学とともに学び始めた英語は当初一番の苦手科目でしたが、その状況を見て危機感を覚えた母が、友人の一人が開いていた英会話教室を受けるよう手配してくれたため、高校受験機には数学の次に得意な教科となっていました。とはいえあくまで “高校受験の科目としての英語” が得意なだけであった私は公立高校共通のテストで入試を行う母校に入学することはできたもの、その中での英語力はまさしく最底辺と言うのに相応しいものでした。
国際バカロレアの中でも、私の進学した高校はバイリンガルディプロマ(2言語で履修する高等教育)を採用していたため、履修する科目のうち2科目、英語と数学は英語の授業で教えられていました。
最初の最初は本当にひどいもので、双方英語で教えられいて先生が共通していた英語の授業とAcademic Writing(学術的な文章の書き方を教わる授業)のどちらを受けているのかの判断がつかなかったほどです。ただこの自分に見合わないハイレベルな環境にいることによって、入学前に思い描いていた理想通りとはいかずとも、特に英語を 聞く、書く、話す ことが非日常でなくなった ことは海外での生活を目指す上で大きく活きていると感じています。
最も致命的であったのは、国際バカロレアは“英語を学ぶ”カリキュラムではなく“英語で学ぶ”カリキュラムであったことです。
英語のほかに数学の授業を英語で行なっていることは前述しましたが、他にも日本語を除くすべての授業の教科書が英語で書かれていたりと、高校生活は生徒が英語力を持っていることが前提とされる事柄で溢れかえっていました。
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英語力の不足が他教科の学習を阻害することは言うまでもありませんが、自身の高校生活における最大の反省点は、数学において、問題が解けないことが自分の英語力に起因するのか、数学力に起因するのかきちんと把握しなかったことにあります。
数学の授業を英語で行うというのは何も説明を受けることだけの話ではなく、授業内に行われるテストも同様です。当然英語力の足りない私は問題文を十分に読めることもなく、低い点数を記録していました。
しかしながら、私は中学時代数学にかなりの得意意識があり、高校に進学してからも塾で数学を受講したりなどしていたため自分が数学が徐々にできなくなっている可能性に目を向けずに、内容自体は理解しているのであろうと過信してしまいました。きっと高校受験を終えたばかりの最初の時期こそ “英語力のみ” の要因により間違えていたことだろうと今でも思っていますが、高校卒業時の見るも無惨な数学力を目の前に、肝心の数学力を早く疑わなかったことを悔やまざるを得ません。
“努力できない”自分
高校入学時、私は自分で主体的に勉強した経験がほとんどありませんでした。
この文章だけだと親や教師に言われるがまま勉強したように読めますが、実際はその真逆で、勉強と進学の意思はありながらも人に強制されるまで行動に移すことができなかったのです。当時の自分もその自覚があり、高校受験期は親に数ヶ月に渡り頼み込み、個別塾と集団塾を掛け持ちして週4-5で塾に通っていました。
そこまで手を尽くしても尚学校や塾の宿題を含めた自宅学習を全くせず、そこまで手を尽くしてやっと学校と塾の拘束時間のみ勉強することでようやく受験生として人並みの勉強時間に追いつくことができたのです。
しかしそれは高校に合格して受験期のように塾に通わなくなったらすぐ崩壊しました。それは言ってみればお金と人の力を借りた努力にすぎなかったのです。
エスカレーター式に進学した中等教育課程を卒業し、自ら選んだ高校に進学で自分のしたかった勉強をすれば自ずと努力もするものだと楽観的に考えていました。
前述した通り私の関心は学問に近いところに向いているところが多く、それは高校に進学したのちも発揮されました。日本語の考察・解釈に没頭することもあれば、アクティブラーニングの授業を通して今まで以上に歴史に熱中したりと、勉強が楽しい瞬間は数えきれないほどありました。
しかしながら、やはり「やりたくないことをやる」努力というのは間違いなく国際バカロレアの最終試験を突破するのに必要な能力でしたし、それは他の何をする際にも同じことが言えるでしょう。
私は高校3年間でやりたくないことを継続的にやることはできませんでした。
この努力しない自分は今でも課題の一つで、高校時代と比べれば自分のモチベーションをあやするすべも自主学習の体系もある程度確立し、学校に通わずとも自ら学習を進められるようにはなりましたが、それでもなお理想的とは言い難く、自分の目標の高さと自分の行動のギャップに悩まされています。
起立性調節障害と苦悩
そんな成績右肩下がり、そろそろ立て直さなければ取り返しのつかなくなる高校2年生の秋、突如として朝に起きることができずに午前の授業に間に合わなくなることが度々出てきました。
正確には幼い頃より寝つきも寝起きも悪く、朝起きて学校に通うことに苦労をしなかったことはなかったので「寝たいときに寝れない」、「起きたい時に起きれない」傾向は見られたのかもしれません。それでも、ある程度次の日を見越した時間にベッドに入るよう意識すれば週に何度も大幅な寝坊をするようなことはかつて一度もありませんでした。
高校入学とともに朝の余裕がなくなったことで朝ごはん・昼ごはんを食べなくなった、アレルギーにより抗ヒスタミン剤を服用するようになってから副作用の一つである眠気が強く感じられるようになった、などいくつかそのトリガーとなるものに心当たりはありました。しかしながら、こればかりは医療が解明してくれるものでもなければ、議論の末に確かな結論が導かれるものでもありません。
起立性調節障害は自律神経の働きが悪くなり、起立時に身体や脳への血流が低下する病気です。 そのため、朝になかなか起きることが出来ない、朝の食欲不振、全身倦怠感、頭痛、立っていると気分が悪くなる、立ちくらみなどの症状が起こります。 症状は午前中に強く、午後からは体調が回復することが多いです。
怠惰か病気か、自分でもわからない
最初は一ヶ月と経てば今まで通り朝起きて学校に行けるだろうと思っていました。しかしながら、二ヶ月、三ヶ月経てどよくなるどころか生活習慣は後ろに倒れるばかり。
さらについていけなく勉強に、遅刻する罪悪感。いつしかあれだけ魅力的であれだけ楽しかった学校に見合わない自分の現状が嫌になり、ふと起きて学校に大幅に遅刻するような時間だとその日はもう登校したくないと思う気持ちに抗えないことが増えてきました。今思えば周りの目を過度に気にしすぎていた側面もあると思いますが、今同じ状況に陥った時に違った選択が取れるかと聞かれたら、未だ私は首を縦に振ることはできません。
もちろん生活に支障が出ているからには診療をし、診断書を出してもらっていますが、それでも自分でさえ自らの行動原理が怠けから来るものなのか、体調から来るものなのかはっきりと言えるようなものではありませんでした。
ひとつ確かに言えるのは、自律神経系の “障害” というのは明確な原因が定められているものではなく、日常生活に支障が出た際に自らがどのような症状を持っているのか人と共有するためのラベリングのようなものであるということです。
通説では遺伝や思春期による体内のホルモンバランス、など様々な理由が複合して発症するとされていますが、明確にこれを背負っていたら発症する、この内いくつの要素を持っていたら発症する、などが決まっているわけではなく、「いろいろな要因が重なって自律神経に問題がでる人がいる」うえで、「生活に支障が出る程度であれば診断を下す」というのを人為的に定められているだけでそれ以上でもそれ以下でもないということです。
「病気だからかんばれなくても仕方がない」、「病気でないから人と同じように頑張らなきゃいけない」、ではなく、私に課せられるのは症状を自分の体質として理解し、受け入れ、できる限りのことをすることにすぎません。
症状は今
先生の手厚い協力もあり、私はなんとか危うくも高校を卒業することができました。しかしながら、2年の後期より卒業だけに集中することを強いられ、1月の自由登校になっても卒業が確定していなかった私はそれまで進路決定をすることすらままなりませんでした。
高校を卒業したのちも回復は非常に緩やかで、日勤の社会人や全日制の学生と同じような生活を送ることはできませんでしたが、フリーターをすることで、自らに適した形で社会への迎合をすることができました。
これこそが私がフリーターを選ばざるを得なかった理由です。
朝に起きることが難しい私の場合は、それが「正午以降にのみ働いて少しでも留学資金を増やす」ことだったのです。
そうして高校時代に比べて無理の少ない生活を送ることによって、明確に自分が今どのような体調であるのかはわからずとも、現在は自分の働きたい時間働いて、自分の勉強したい時間勉強する生活が送れています。
とはいえ、「正午以降にのみ働いて少しでも留学資金を増やす」選択は今の私ができる唯一目標に近づく行為であっても、決して私の成長を促すものではなかったことは自覚しています。
例えば知見を広めるために海外に出てみたり、インターンをしたり、ボランティアに尽力したりと、一年という膨大な時間があれば違った選択をしてより自分を成長させることが可能であったと今は思います。
しかしながら、そのような考えでさえバイトで貯金を増やし、自らの資金でドイツに渡る過程を経てようやく得たものであったため、このような選択肢が見えてきた現状が今年の収穫であったのかなと思います。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。
何も特別ではない、秀でているわけでもない一端の19歳ですが、そんな私の経験や感じたこと、考えたことを発信していくつもりなので温かい目で見守っていただけると幸いです。