月刊「致知」5月号 1人木鶏会〜インタビュー 道場六三郎〜
2024年5月号の致知、特集のテーマは「倦まず弛まず」
あの「料理の鉄人」の道場六三郎さんは御年93歳!
なんという良いお顔をされているのでしょう。
今も現役で、VIP対応や後輩の指導で厨房に立っていらっしゃるそうです。
現役の人のお顔ですね。
幼少の頃から、ご両親が説いてくれた人生訓に以下のような言葉があったとのこと。
「神仏は見てござる。親や先生の前では真面目にやって、見ていないと手を抜く人がいるけど、陰日向があってはいけない。どんな時も一生懸命やらなきゃいけないよ。」
「辛いこと、苦しいことがあっても決して嘆いてはいけない。逆境に遭ったら、それは神が与えた試練だと思って受け止めなさい。逆境の中にいても必ず喜びはある。」
私は親からこんなことを言われたことがありませんでした。
昔の日本人の宗教心の豊かさ。貧しい、辛いことが多い生活だからこそ体験の中から出てくる言葉ではないでしょうか。
そして、料理人になる修行のため、19歳で故郷の石川県から上京するとき、お父様からは「石の上にも三年。いったん家を出て行ったら、石にかじりついてでも我慢しろ。決して音を上げるな」
お母様からは「人に可愛がってもらいや」という言葉をもらったそうです。
人に可愛がってもらうためにはどうすればいいか?考えて実践していくと、頼まれやすい人間になり、様々な仕事を経験できて、上の人に引き上げてもらえるようになり、めきめきと腕を上達させることができたとのこと。
長い人生の中で経験した逆境の一つに、20代前半の頃、仕事場の板長から酷いいじめに遭ったことがあり、そんな心が折れそうな時に支えてくれたのもご両親の言葉だったそうです。
その言葉とは、
「何も分からないうちは我を出してはいけない。鴨居と障子がうまく組み合わさっているからスムーズに開閉できる。それが合わなくなれば、障子の枠を削る。上の鴨居を削ることはしない。鴨居とはお店のご主人で、六ちゃんは障子だ。だから修行とは我を削っていくことだよ」
「修行とは我を削っていくこと」
昔の日本人はみんなそう思って修行していたのでしょうか。
昔は選択肢がなく耐えるしかなかったという時代だったのかもしれません。
70年前と今では時代が変わってしまいました。
今は理念や目的もなくただパワハラする上司やブラックな企業も多いでしょう。
しかし、我を削るという考えにハッとさせられます。
我を削るから人の痛みや辛さも分かるし、相手を想いやる心も醸成されるのではないでしょうか。
若き道場さんは、ご両親の言葉を自らに言い聞かせ、「ここが踏ん張りどころだ。いま辞めてしまったらこれまでの努力が無駄になってしまう」「板長も何か訳があって意地悪をしているんだ」「これは神様が与えてくれた試練なのだから、逃げずにとにかく頑張ろう」と鼓舞し、一生懸命に働いたそうです。
その結果、次第に板長の態度が変わり、道場さんのことを認めてくれるようになったと。
これまでたくさんの料理人を見てきて、伸びていく人と途中で消えていなくなる人の差を考えたとき、それは料理の腕以上に日常のあり方に現れることを実感されているそう。
脱いだ靴を揃える、ドアを開けたら閉める、自分から大きな声で挨拶をする、、
といった日常の当たり前のことをいかに徹底できているかが問われる、と。
これは子どもの頃からのしつけが大きく物を言うのではないでしょうか。
良い習慣を身につけること。
人が見ていなくても自己修養を積み重ねること。
料理人だけでなく、全ての仕事に通じることだと思いました。
青山学院大学の原監督が、人間を育てる上で一番大事なことはしつけ、と話していたことを思い出しました。
親や周りの大人がお手本になって、良い習慣を徹底的に身につけさせる。
私も、子どもたちに真似されて恥ずかしくないこと、子どもたちの世代に残したいと思うことをやるよう、自己教育しようと思ったのでした。