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9月11日とその前後


アフガンタクシードライバー

9月10日
2001年9月12日から始まる展示会の準備のためにワシントンDCへ。
ダレス国際空港からワシントン市内にタクシーで入った。
運転手が陽気な兄ちゃんで「どっから来た」とか「DCまでは$1000かかるぞ」とか冗談ばかりとばしていた。
「東京から来たのか」と聞くから「名古屋からだ」と答えたが「それどこ?」と言われてしまった。名古屋から来たのに「DCと東京とどっち好きか」と聞いてきたから「DCは初めてだからわからない。あんたは?」と聞き返したら「おれもわからない」と言う。
「あんたどこの出身?」と聞いたら「おれか?アフガニスタンだ。アメリカに来て12年になる。はぁっはぁっはぁっはあ」

テロ

9月11日
時差ぼけの自分を置いて、9月8日から現地入りしていた同僚たちは朝早くから展示会場へ向かった。自分は後から会場入りしたが、到着早々、それまでどこかに姿を消していた同僚の一人が、「WTC(世界貿易センター)ビルに飛行機が突っ込んだらしいぞ!」と笑いながら話していた。そいつは会社の中でも一番嘘つき野郎だったので、誰も信じない。
会場にはフリーのインターネットアクセス用PCが置いてあったが、その画面には煙をもうもうと上げているWTCの写真が「Live」の文字と共に映し出されていた。
とたんに会場内があわただしくなった。今、別の飛行機がワシントンめがけて飛んでいるという。どこから流れてきた情報なのかがわからないが、展示会の設営業者たちは「もうここにはいられない」と、さっさと道具を片付けて帰ってしまった。

結局その日は展示会場は閉鎖となり、我々はそのままホテルへ戻った。
地下鉄、バスなどの公共交通機関は全てストップしたため、ホテルまではタクシーで戻ったが、街中は焼けたようなにおいが漂っており、消防車や救急車、パトカーがサイレンを鳴らしまくって走り回っていた。後からペンタゴンにも飛行機が突っ込んだとニュースで聞いた。

しばらくホテルの部屋で待機、ということになった。部屋に戻ってテレビをつけたが事件に関する新しい情報はほとんど得られず、WTCに旅客機が突っ込むシーンと、それが崩れ落ちるシーンばかりを延々と放送していた。それを見ていたらなんだか気持ちが落ち込み、気分が悪くなったのでテレビは消した。

夕方、一同集まって相談。今回の展示会は中止となった旨知らされた。また米国とカナダの全土で航空機の飛行が禁止されたため、すぐに日本に帰ることも出来ず、5日後に予約していた日本へ帰国する飛行機も予定通りに飛ぶかどうかもわからないとのこと。
夜には外出禁止令が出た。
日本とは電話が全く繋がらなかったが、2日目にインターネット回線は使えるようになり、なんとか家族と会社に連絡を取ることが出来た。

ホテルで同じエレベータに乗り合わせた見ず知らずの人(恐らくアメリカ人)に、いきなり「とんでも無いことになったね」と言われ、「ああ、まだ信じられないよ」と答えた。アメリカ人って全く知らない相手でも、朝、ホテルのエレベーターで顔を合わせると、「おはよう」と何の抵抗もなく挨拶してくれる。ホントにフランクでいい奴ばっかり。アメリカって国はあまり好きではないが、アメリカ人はいい奴が多い、と思う。

会社の偉いさんたちは、なんとか陸路を車で西海岸まで向かい、そこで飛行機を捕まえて日本に帰ると言って旅立った。結局、彼らが帰られたのは我々とたいして変わらない時期だったが。

追悼

9月12日
Candle Lighting(全米での市民の追悼イベント) に参加してほしいとのホテルからのチラシが部屋においてあったが、私らは結局参加しなかった。追悼の気持ちはあったが、キャンドルに火を灯してアメリカ国歌を歌うなんて、報復攻撃をけしかけているみたいでいやだった。
テレビではやたら「パールハーバー以来の悲劇だ」などと言っていた。あれは戦争でこれはテロなんだから、やはり日本人としては複雑なところ。イギリスのブレア首相は「これは戦争ではなくてテロだ」と言ってくれた。

国立大聖堂で行われた追悼式に、ブッシュの馬☆親子とともにクリントン、カーター等の歴代大統領が参加していた。カソリック、プロテスタント以外にもイスラムの司祭も参加して、宗教に関係なく死者を悼むという態度を示していた。でもキリストの十字架像の前でイスラム司祭が追悼の辞を述べている姿を見て、イスラム教徒はどう思ったろう。
追悼式はキリスト教式で行われ、軍楽隊の演奏や、各軍のユニフォームを来た旗手が旗を持っていたり、参加者の半分近くが制服組だったりで、つくづくこの国はキリスト教国家で軍事国家なのだなあと思った。これから始まる報復攻撃に備え、憎しみを新たに士気を揚げるための軍の結団式にも見えた。
ブッシュジュニア(もしくは馬☆鹿息子)は追悼の辞で、「国家が団結して敵を打ち破れ」などとカメラ目線で語っていた。彼が大統領に当選しなかったらこんなことは起こらなかったかもなと思った。
政府のブレーンはあの湾岸戦争(ジュニアの親父が大統領だったとき)のスタッフだし、国務長官は当時の統合参謀総長のパウエルだし、アラブ方面の戦争の条件は揃っていた。
(結局アメリカは、本当にアフガニスタンで戦争を始めてしまった。)

ユナイテッド93

9月13日
日本に住んでいるアメリカ人の同僚から受け取ったEメール。
「非常に悲しいことだが、☆☆☆☆社でよく知った人がPentagonの方の飛行機で亡くなったようです。突然、なんか、とてもRealになった。Real過ぎる。とてもいい人だった。悲しい。なかなかCNNを消せない。もともとCNN嫌いなんだけど(Balanceがない事やReport方法など)、ず~と見ている。火曜日の夜も 深夜4:30まで見ていて、何といえば言いか分からず複雑です。これは良くない、こればかりだと。もう、CNNを消して、自分の人生、自分の仕事、自分の家族に集中して、生きていきたい。」
アメリカ人の受けたダメージは相当だっただろう。
途中で墜落した便に乗っていた人の話は、自分も現地で会社の偉いさんから聞いていた。墜落する前に機内電話で奥さんに連絡があり「今からハイジャックの犯人を阻止する」と言って電話を切った、ということをその奥さんがテレビで話していたそう。
(後から知ったのは、この人はユナイテッド航空93便に乗っていて、結局ペンシルバニア洲ジャンクスヴィルに墜落していた。映画にもなったので見たのだが、後味の悪すぎる、犠牲者にもハイジャック犯にも絶望しかない映画だった。)

こうばしい

9月14日
姉からもらった甥の近況のメール。「風邪をひいて寝込んでいたが、チョコレートをあげると、たかだか4歳児のくせに「こうばしくておいしい」などと言いながら、嫌いだったはずなのによろこんで食べていた。微熱で少し元気になったが、LEGO で WTC の片割れと旅客機を作り、激突させてはビルを崩壊させて遊んでいる。ちょっと心が痛むけれど「やめろ!」と言う気にもなれず、世界中の子供たちが、今頃これに近い遊びをかなりの確率でやっているような気がする。」

CNNのニュースは、「AMERICA on Attack」から「AMERICA'S New War」と表題を変えていた。DC市内の緊急警戒態勢は解除されたようだったが、引き続き準警戒態勢となった。といいながら、我々は朝昼版とレストランで食事が出来、レストランの中では笑い声さえおこっていた。金曜日だしね。みんな楽しそうに食事をしている。全米が悲しみに暮れているみたいな報道がされているたが、こっちは普段道理の生活が続いていた。

カフェモーツァルト

9月15日
ホテルのレストランは高かったので街の食堂を探したが、ほとんどやっていない。1件だけ、裏通りに「カフェモーツァルト」という汚くて小さいデリと食堂をやってる店が営業をしており、ほとんど毎日そこで食事したりお持ち帰りしていた。店の親父さんとも顔なじみになってしまった。
ちなみに、すぐ近くの表通りには「カフェアマデウス」という大きくてきれいなレストランがあったが、全く営業する素振りもなかった。

やることも無く、夜になればホテルの誰かの部屋で酒盛り、の毎日。
でも14日には街中も大体落ち着いてきて、夜の外出禁止令も解けた。暇なので15日の昼にワシントンの町を歩き回った。

ホワイトハウスや
合衆国議会議事堂や
ワシントン記念塔前の半旗や
その近くで踊っていた天使のオジサンや
リフレクティングプール前のキャンドルや

ホワイトハウスにブッシュの馬☆息子がいなくなったんで、警官は多いかったがホワイトハウスの写真も取れたし、タワーにもリンカーンとジェファーソンの記念館にもポトマック川の桜並木にも行けた。アメリカの国旗を持っている人がやたら目立ったのを除けば、ワシントン市内はいたって平和なもんだった。ニューヨークの有様は想像すらできなかった。

混乱

9月16日
帰りの便はなんとか予定通りに出発することとなり、空港へ向かった。
空港は混乱しているだろと思い、出発の4時間前に空港に到着。案の定大混乱。予約してた便に乗れなかった人々が空席待ちで溢れかえったいた。

セキュリティーチェックでは、靴脱げ、ジャケット脱げ、ベルトはずせ、PCにスイッチ入れろ、預ける荷物も手持ち品も中身を全部見せろ、など、今は当たり前になっていることではあるが、当時としては過剰な体制に突如変わり、また職員も慣れてなく、マニュアル化もされていないようで手間取った。なにより、大きな声で叫ぶように指示する職員のパニクリ方といったら、かなり怖かった。
特に外国人、おそらく有色人種へのチェックは厳しく見えた。

帰国

なんとか飛行機に乗り込むことができた。隣の席のジャカルタの政府関係者だという人は、9月12日に帰る予定が足止めされ、今日やっと日本経由の帰国便を確保できたと言い、かなり疲れた顔をしていた。

一連のハイジャックされた旅客機のうち、ピッツバーグで墜落したユナイテッド93便は、目的地がホワイトハウスだったのではないかと言う話を後で聞いた。ホワイトハウスと自分たちが泊まっていたホテルとは1ブロックしか離れていなかったので、その話を聞いたときはぞっとした。

やっと日本に到着したときは、かみさんが泣きそうな顔で空港まで出迎えにきていた。しかし、感動の抱擁、とまではいかなかった。

そういえば11日以降、街中でアラブ系の人を全く見かけなくなった。あの時みんなどこに行っちゃってたんだろうか。それと、アフガニスタンから来たというタクシーの運ちゃん、その後どうしているんだろうか。

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