必要な不必要。
私の仕事先の先輩で役者をやっている人がおり、仕事の縁から度々芝居を観に行くようになった。
私は小さい頃クラシックバレエもやっていたし、Twitterではよく名前が挙がる母サトミさんが、子どもの頃私に演劇などを鑑賞する会に入れていたので、結構観に行っていた。
ついでにいうと、不良崩れの学生の父も演劇部で、一度「演劇部の先輩が映画に出ているから観に行こう」と行って連れて行かれた先は石井克人監督の『鮫肌男と桃尻女』であった(親娘で観るような映画ではなかったと思うが)。
それに昔、父に実際の劇場に連れて行ってもらった気がする。
北海道は、大泉洋がいるTeam Nacksもいることから、演劇に対する土壌があるのかもしれない。
そんな訳で演劇に対する文化資本的はなくはないはずである。
最初は目の前で役者が演じることに圧倒されていたけど、数を観ていくと、もう少し細かな点に気付くようになるのは、よくあることだ。
今回はこのお芝居を観に行ってきた。
外組公演 其の十弐 「ひみずや」
説明がざっくりしてるので、ちょいネタバレ気味に書くと、バブル期の北海道の炭鉱地域を描いたものである。
「1980年代まで炭鉱なんて稼働してたんだ!」って感じだけど、実際稼働していたらしい。
青平という名前が出てくるところから、舞台は赤平をイメージしているのかもしれない。
東京や関東の人達からしたら「戦後の話かと思った!」な話なのだけど、バブル期の話であり、実際…現在だってこの炭鉱夫のような人たちは沢山いると思う。
舞台を観ていくと、「実際のバブル期にこんなしっかりと考えていた経営陣がいたのだろうか…」と思うところもあったのだが、バブル期の話で盛り上がってしまって、我々ロスジェネ世代はわからん…ってことはなく、程良く現代の流れと組み合わせられている。
私の先輩は中神一保さんという方で、今回は非常に素晴らしく…良いポジションの役をやっているし、なんともまぁ、中神さんらしいのだ。
観たらわかるんだけど、中神さんの役「空次」という人は炭鉱夫の中では「スカブラ」というポジションである。
劇が終わって中神さんと飲んだら、実際にその時代の炭鉱夫にはそんな人たちがいたらしい。
「スカブラ」とは「スカッとブラブラ」なんにもしない人なのだ。
いや、現代だったら、ディレクターだの、現場調整役だの、何かしらの名前がついて、偉そうに高いお給料をもらっていた人かもしれない。
でも、80年代の炭鉱夫の話なのである。
炭鉱産業は収集に追いやられ、その中で機械化、人員整理と、現代化が進行する。
これは現代の我々が直面している問題であるが…、同じく、転換期についていけずに悩み、苦しむ人々はいる。
その人たちには、それぞれにその人たちの暮らしがある。
そんな悩みを最初はコメディのオブラートに包んで描いている。
そこが妙にリアルなのだ。
我々だって、毎日仕事に行けば、悩みがあっても、ヘラヘラ笑ってやり過ごす。
そういうリアルなコメディタッチなのだ。
そして役者さんは6名しかいない。
演劇を観る前の説明で(私は仕事で遅くなったので途中から聞いた)「服が変わったら役が変わったと思ってください」と話していた。
実際観たら、6名とは思えぬボリュームだった。
しかし、とはいえ6名しかいない。
しかも舞台は一つしかないので、舞台のセットの転換や、着替え、そして休憩などがあり(おじさんばかりの舞台でしたからね笑)、生の舞台ではそういう映像では「不必要」な時間が必要になる。
その時間をも、若手の役者さんが楽しませようとしたり舞台監督のような人がセット替えを大道芸的に楽しませる。
そこが生っぽくて、言い方が悪ければ無駄で、映像にはない面白さなんだと思う。
私は今回舞台を観て、妙に「なるほどな〜」と思ったのだ。
そして…中神さんの役『空次』も「不必要な必要」なのだ。
今、いろんなものを「不必要」と斬り捨てているけど、実際それで私たちは良かったのかな?と思うことがある。
そんな現在に観てみると、妙に心に沁みる舞台だと思う。
完璧に編集され、不必要なとこがない作品も確かに素晴らしい。
非の打ち所なんてないのだから。
でも、それで自分が満たされないと気付いたなら、寺山修司の如く『書を捨てよ、街に出よう』ということなのかなと思ってしまった舞台である。
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