人間の"ハレ"と"ケ"、SNSが可視化したもの、そして変容する勇気。
"ハレ"と"ケ"という概念がある。なんとなく使っている言葉だったので、出展が貧相であるがウィキペディアで調べてみた。
ほうほう、ハレとケには、後々ケガレも含まれるのだな、とかなんとか思ったのだけど、まぁ、ここでいうハレとケは光と影みたいな使い方をしたいと思う。
人間には、他人に見せている"ハレ"の部分と、他人には見せない、もしくは心の許した人にしか見せない"ケ"の部分があると思う。
ここ最近「人間のハレとケ」について考えるようなことが多かった。
ベテランアイドルの女子高生への強制わいせつ、そしてアルコール依存性、若手農業アイドルの自殺、登山家の登頂中の死亡、そしてカンヌでパルムドールを受賞した是枝監督への反日批判。
なんか全てが繋がっている気がした。
そこには強烈に「人間のハレしか見たくない人達」を向こう岸に感じるのだった。
そして私自身は、ADHDという発達障害や、精神疾患に悩まされているため、SNSで自分のケの部分を発信してきた。
ハレが強くなればなるほど、ケが辛くなっていくのがしんどいからである。
しかし、現在「ケの自分を知って欲しいという思いからの発信が、いつしかハレになってしまう危険性」みたいな危うさを抱えている。
そして、人はそれをメンヘラ芸と呼ぶ。
でも、このケをハレ化していく構造って実はアイドルが農業をやるのと近しいのかもしれない。
先日「SNS展 #もしもSNSがなかったら 」に行ってきた。
SNSが可視化してきたものを考えさせられる展示で、特に燃え殻さんのブースは印象的だった。
燃え殻さんのブースを観ていたら、なんとご本人が影に潜んでいてビックリした(笑)。正直怖かった(笑)。
そして勇気を出してお声がけさせて頂いた。
燃え殻さんはTwitterのイメージ通りである意味すごい…!と思ってしまった。
燃え殻さんはSNS展に向けてこんな話をしていた。
燃え殻インタビュー。もしSNSがなかったとしても、僕らは出会う - インタビュー : CINRA.NET
燃え殻さんはハレとケをA面B面と表現している。
燃え殻さんは他人と争わないけれど、遣る瀬無さをずっと表現している人だと思う。
そしてその遣る瀬無さは同時に諦めてない人だなぁとも思う。
ハレしか見たくない人はとても潔癖で正義感に溢れているように思う。
私にはそれがどんな人達なのかはよくわからないし、しかし、私も気を抜けばそうなってしまうだろう。
人間は見えているもの通りなこともあるし、見えていないものもあるし、他人のことなどわからない。
実際自分のことすらわからない。
自分の放った言葉に強がりがあったとしても、そのときはそれを鵜呑みにしてしまう自分だっている。
私が長らく精神病院に通って思うことは、自分だって自分に嘘をついたり騙されたするということだ。
でも、そういう自分にもわからない自分みたいな、自分の余白を受け入れるというのは、少しだけ大人っぽいことのように感じる。
SNSはふっとケの自分を吐き出す場所だったと思うけど、このところは先程から書いている通り、ハレしか見たくない人の存在を感じるようになった。
それはまた他人の変容を許さない人達のように感じるし、つまりは他人のイメージを固定化して消費しているようにも思う。
その一つにSNS、インターネットはログが残ってしまうことのせいかなと思う。
言葉の伝承だけであれば、その聞いた言葉の記憶は時間というものによって風化し、それによって人は変容することを許されていくのに、過去も現在もフラットに可視化していくSNS、インターネットは、人々の変容を許さない。
それどころか変容を許さない人達は、刺激を求めてどんどん過激になっていくようにも思う。
登山家の死は、どんどんと山を登ることがショーになっていってしまったのかなと思う。
しかし、このところ、危機や失敗をきっかけに、うまく軌道修正をかけ、変容を手に入れる人達が出て来た。
古いアイドル事務所を出た人々、不倫でイメージが壊れてしまった人、そして今回の日体大の件でもそれは感じた。
人間は変容するものである、そしてその瞬間の行動、発言などは揺らぐものである(その揺らぎをなかったことにしたり、受け手に理解がないのだ、と擦ってしまう行為は、今各所で起きてる問題にも繋がっていくのだが…)。
それをいかに、自分に無理のない形で表現していくか、それはつまり変わらない自分に気づく行為でもある。
そういう表現をしていくのは、実に勇気があり、難しい。
強烈に固定化されたハレを期待する人達の存在の多さも私達は可視化してしまったので、そういう人達を裏切っていく行為というのは、ときに危機を招くこともあるだろう。
しかし、この先に進むためには、変わらないことを選ぶよりも、変わらない自分と変わる自分、両方表現していくしかないのかもしれない。
SNSはマスを獲得したのだろう。
そして成熟に向かう時期になったのかもしれない。
そして受け手側も変容していくこと、揺らぎを持つものを受け入れていく必要があるのかもしれない。