寂しさには自覚的でありたい。
先日、男性の友人と食事を食べていたときのこと。
ある人のことを二人で寂しがりだと話していた。
友人は「私はそんなに寂しいというのがわからない。自分も子どもの頃に寂しい環境にあったと思うけど、その人のようなことは考えたことがない」と言っていた。
私は、そのときはなんとなくピンと来なかったけど、あとからその言葉のモヤモヤが輪郭を帯び、なんだか形作られていった。
「寂しくないというなら、今この時間は一体なんなんだろうか?」
私は若い頃、死ぬほど寂しくて、吐き気がするほど誰かを求めていた時期があった。
あれはなんだったのかわからない。
性欲だったのかもしれないし、ホームシックだったのかもしれないし、しかし沼に足を取られるような孤独感と寂しさで頭がおかしくなりそうだった。
生まれてからずっと独りなんだから、他人なんて知りたくもなかったと思った。
そんな若い苦しい時期を越え、今も寂しいことには変わりがなく、人間は孤独だと思わない日はないけれど、最近はだからこそ他人と居られる素晴らしさを実感するようになった。
なんだかその言葉は強がりのようにも感じたし、驕りのようにも感じられた。
だったら、誰にも会わなきゃいいのに、と思った。
寂しいときは寂しいと言えて、他人を素直に求められた方が余程可愛げがあっていい。
可愛げは女だけに必要なものじゃないと私は思う。
男性は、寂しいと口に出すのは憚れるのかもしれないし、もしくは本当にそれが寂しさと知覚していないのかもしれない。
そんなことに腹を立てつつ、自分は寂しさには自覚的でありたいし、孤独を感じていたいし、やってくる人々がいつも一期一会だと思う、そういう切実さで、誠実に過ごしていきたいと思ったりした。
#エッセイ #日記 #ヒグチトモミ #ヒグチトモミのつれづれ日記 #寂しさ