ADHDとか。その10〜友人達のこと〜
昔の私を知っている人は、私が随分と変わったと思うだろう。
実際にそう言われたこともある。
学生時代はあまり友達がおらず、私は親友が一人いれば十分だと思うタイプの人間だった。
小学校の終わりと中学時代はクラスの男の子に無視をされるいじめに遭っていて、おかげで私は男性が苦手になり、人間不信にもなった。
いじめのトラウマを引きずって、しばらくはどうしてそんな私一人、男の子から無視されるのだろうと考え悩むことも多かった。
いじめなんて大きな理由がないことを今の自分は知っているし、今になって思うことは、私はクラスでさぞかし浮いていただろうと思う。
私は先程の話もあるように学生時代から一人でいることが多かったし、寂しいと思っていない訳じゃなかったと思うけど、無理して合わない人達と合わせるのは馬鹿馬鹿しいと思っていた。
女の子同士でつるんでトイレに行ったりすることは、くだらないと思っていたし、私はよほどそれをしないとクラスにいられなくならない限りは、そういうことをしなかった。
授業中も授業がつまらなくなると外の景色ばかり見て空想に耽ったり、絵を描いたり、ひどいときには眠ってばかりいた。
時々ADHDの人の特徴を示す漫画みたいなのを見ると、外の景色ばかり見てボーっとしている人が出てくることがあるけど、まさにあんな感じだ。
高校時代はクラスメイトともうまくやれていたのだけど、隣の席の男の子や友人に「ヒグチさんって、本当寝てるか、外見てるか、絵を描いてばかりだよね。」と言われたことがある。
私自体はそれが何が悪いのかもわからなかった。
でも、それはある種類の人達からしたら奇異に見え、排斥されたのかもしれない。
私からすると学校という場所の方が奇異で、なぜたまたま同じ地区に住む人達と無理して仲良くしなければいけないのだろうという感覚だった。
いじめなんて、他人に干渉しなければ起こらないのに、と。
高校、大学と進学するにつれ、気の合う友達が出来るようになった。
それは同じような学力、同じような進路を目指す、似たような人達が集まる環境になってきたからだと思う。
それでも、若い頃は他人に好かれたいとあまり思っていなかったような気がするし…なにより他人に好かれることが恐怖だった。
いや、今も私は他人に好かれることに恐怖心がある。
他人に手を伸ばすこと、つながりたいと努力することに素直にアプローチ出来ない時期が長い間あった。
若い頃の自分を思い出すと、暗い海の底のようなところで、長い間沈んでいたような、そんな感覚がある。
それでも、親友と呼べる友人は中学、高校時代にそれぞれ一人ずついて、今も変わらず親友である。
二人とも私にとっては命の恩人である。
彼女達がいなかったら、私は暗い海の底に沈んで、そのまま窒息していたのかもしれない。
私の母は彼女達に対して「本当に二人ともいい人達で、気が長いわよね。あなたがどんなに遅刻しようとも待ってくれるのだから」と言われたことがある。
私はよく遅刻をしたし、約束を忘れた。
時には待ち合わせを一時間以上待たせることもあった。
今思うとよく本当に友達でいてくれたと思う。
彼女達とはケンカすることもあったけど、根気強く私と関わってくれた。
人間不信で、深い仲になった途端に怖くなって他人を傷付けてしまう私に、時には少し距離を置いて、それでもまた戻ってくれる人がいなかったら、私は他人に心を開いたり、他人に愛されたいとか、他人とうまくやっていきたいと思わなかったと思う。
学生の頃は、もっと閉じた性格だった。
いつでも気だるくて、少し高圧的な態度や、冷笑的な物言いもしていた。
私は他人への恐怖心を、冷笑することで補完したのだ。
特に男性相手には、物言いがキツくなったり馬鹿にすることも多かったし、それは今も名残があり、改善しなくてはいけないと考えている。
私の過去の恋愛は、世間的に言えば悲しいものが多かったと思うし、先に話したように、子ども時代にいじめられていた経験もあるけど、現在私のまわりにいる男性の友人達は、私が男性不信になり過ぎて敵と見做すには、異性の友情は成立するのかとか言う話をしだしたらまたややこしいから割愛するけど、良い人間ばかりで、男だ女だ言うのは退屈なことだなと30歳を過ぎて、ようやく思えるようになってきた。
そうなると、だんだん自分の男性に対する態度も考えないとな、と思うようになり、だいぶ昔より柔和になったのではないかと思う。
人との出会いで人生は変わっていく。
私は今の自分が一番幸せだなと思う。
なぜなら良い友人に囲まれているから。
私には現在、仕事を手伝ってくれるチームレタルと呼んでいる友人達がいる。
正直言うと昔は友人と仕事をするのが嫌だった。
そういうのは良くないと思っていたし、お金が絡むと揉めることになりそうなので敬遠していた。
仕事はドライなものだ、と昔の私は格好を付けて考えていたし、仕事仲間と仲の良い人間を冷笑的に見ていた。
でも、レタルを始めてから、少しずつ友人と仕事仲間の境が無くなり、お客さんだった人と友人になり、いつしか仕事を手伝ってもらうようにもなった。
私はそういう、お客さんがいつしか仕事をしている店とかも苦手だったし、プロとして良くないと思っていた。
若い頃の私は随分とプライドが高く、理想主義者で、こだわりだらけで自分を縛っていた。
事業を始めて、それに一緒について来てくれる人間というのは、そんなドライな関係じゃ到底立ち向かえないんだと最近ようやくわかったのだ。
それは自分じゃなく、一緒に仕事をしてくれる人達を見ていて思うのだ。
とりわけ私は、ADHDを持っていて、人並みのことがうまく出来ないし、普通の人からすれば、理解し難かったり、イライラする存在でもあると思う。
私はメンタルの耐性も弱いし、時々感情を爆発させるので、まわりの人達に辛い想いをさせていることもあると思う。
それでも、近くにいて、仕事をやってくれる仲間は、本当に自分に対して、何かを感じてくれていなければ出来ないと思う。
その何かが、当の自分にはわからないけど、私はこの人達と素晴らしい景色を見るために頑張らなくてはいけないと日々思ったりする。
チームレタルは手前味噌ながら私以外は皆優秀で、本当に皆機転が利き、柔軟かつ真面目で責任感があり、私にはない能力をそれぞれが持っている。
みんな私にこう言う「これはトモミちゃんは出来ないから、私やっとくよ。」と。
私は感謝しかない。
出来ないことは恥ずかしいなと思うし、役に立てない辛さもなくはない。
でも、私がやったら迷惑なことがいっぱいあるのだ。
それを「やらなくていいよ」と言ってくれる人達のありがたさ。
そして仲がいいからこそ、私はわりと悩みを抱えがちなのだけど、それを共有出来、早く対処出来るのが、友人と仕事する最大限のメリットなように思う。
昔はいじめられていた奴等を見返してやりたいという気持ちもあって、ブランドを始めていたようにも思うけど、ブランドをやってもうすぐ7年経つ今はそんな気持ちは消えて、お客様や仲間達と素晴らしい景色を見るために頑張ろうと思うし、それが私の仕事なんだと思う。
良き理解者に出会えるだけで人生は進められるのだと思うし、それは本に書いてあるような知識を並べたような理解では到底なし得ない世界なんだと思う。
本当に友人達には感謝しきりである。
ADHDであることは辛いことも多いけど、その分人の素晴らしさに気付けることは、障害ゆえに与えられた豊かさかもしれない。