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勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(10)

●娘の中学受験(公立中高一貫校)

実は娘も中学受験をしています。私立ではなく県立の中高一貫校です。この受験も私の子育ての中では予定外のことでした。

少し話は逸れますが、娘が小学生のときのある年のPTA本部役員の選挙で、学年での得票数上位7人の中に私は選ばれてしまいました。無記名で学年の名簿の中から1名の名前を書くというもので、3クラスで児童は1学年100人ほどだったかと思います。

「よりにもよってどうして私が?」と思いながら、その7人の中から各学年1名の本部役員を決めるための話し合いに学校に出かけました。

話し合いの末、「私がやりましょう」と言ってくださった心優しい方のおかげで、本部役員の重責から逃れることができました。円満に決定したこともあって、和やかな雰囲気の中、校門の前で雑談していました。

すると、その中の一人の方の上のお子さんが、県内で初めて新設された中高一貫校に入学したという話題になりました。しかも、その中高一貫校というのが、その当時日本で初めての公立の国際学校だというのです。

私は大学時代、国際交流をするクラブに所属していましたが、英語が得意だったわけではなく、勧誘されて、それこそ雰囲気で入部したという安易な入部者でした。英語を話すことに対して意欲的な仲間を見たり、自分自身は満足に英語を話せないのに「国際学生会議」に参加する羽目に陥ったりするうちに「英語を勉強しよう」という気持ちだけは持ち続けていたので、子どもには不自由なく英語を話せるようになってほしいという思いを持っていました。

子どもたちが幼い頃は、NHKの子供向け英語番組を欠かさず見て、ビデオに録って、子どもが家で遊んでいるときには録画したビデオをかけ流すという毎日を送っていました。

車の中で聞く音楽も子ども向けの英語のCDしかかけない徹底ぶりでした。娘が2歳の頃にはそのような生活をしていたので、息子はお腹の中にいるときから英語を聞かされ続けていたかもしれません。

息子が初めて歌ったのは英語の歌で、気づけば日本語の歌をまったく知らないという状態でした。さすがに慌てて、日本語の童謡のCDを聞かせるようになると、すぐに日本語の歌も歌えるようになりました。

それでも基本的には塾は必要ないと考えていた私は、英語を習わせたりするということはありませんでした。ただ、子どもたちが自ら望んだ「ベネッセの英語教材」だけは小学生の頃に買い与えましたが。

この英語漬けの生活を娘が小学校に入学するまで続けていたのですが、子どもたちが大きくなってから、あれだけ毎日英語を聞かされたことを覚えているか聞いたところ、二人ともまったく記憶にはないそうです。

「それ、たぶん無駄やったと思うわ」と二人は笑っています。でも、日本語だって毎日親が話しかけているうちに覚えて話し始めるのですから、英語を聞いていたことも、どこか脳の片隅には残っていると私は信じているのですが、どうなのでしょうか。


そのようなわけで「公立の国際学校」ということにかなり敏感に反応した私でした。進学情報にはまるで疎かったので、そんな学校の話は初耳でした。

話を聞いてみると、一学年80人のうち30人が外国人、そして30人が帰国子女、残りの20人が一般の日本人ということです。日本にいながらにして、そんな国際的な環境の中で中学高校生活が送れるなんて、素晴らしいではありませんか。

早速、家に帰ってその学校のことを調べてみることにしました。これが、娘が通うことになる学校との出会いでした。

ひととおり学校のことについて調べてみてから、娘に「こんな学校があるよ」と話してみました。小さいころから好奇心旺盛な子でしたので、すぐに興味を示し「外国人と一緒に授業を受けるなんておもしろそう!」と言っていました。

6年生の秋に行われた学校説明会に参加すると、説明はすべて日本語と英語のアナウンスが交互に入ります。参加者を見回してみても、外国籍の親子がたくさん見受けられました。私は、何事にも偏見を持たない子に育ってほしいと思っていましたし、実際、うちの子どもたちは国籍や見た目の違いで人と隔たりを持つなどという感覚は持っていなかったと思います。

娘は意欲満々で受験することを決めました。入試は作文と面接。そして、この選考で定員より多くの合格者が出た場合には「抽選」。国公立小中学校にありがちな選考方法です。抽選への参加は親のみでした。

娘は一般の日本人20名枠の受験でした。でも、小学生を作文でどのように選考(選別)するのでしょう。「受験対策はあるの?」わからないことばかりです。

すると娘は「ベネッセで作文対策講座みたいなのがあるからやりたい。」と言ってきました。文章を書くことについて改めて学ぶのも良いことです。やる気になったときを逃す手はありません。すぐに申し込みました。

内容について、私は忙しくてろくに見たことがないのでよくわからないのですが、その教材と添削指導で自分で努力していました。

入試間近になると、「ママ、面接の練習手伝って」と何度も言われましたが、忙しくて「今度ね」と先延ばしにしているうちに、あっという間に試験前日になっていました。娘が「まだ練習してない!今日は絶対にして!」と怒るので、前日に1時間ほど練習に付き合いました。もっとたくさん練習に付き合ってあげればよかったなぁと少し後悔の気持ちを残したまま受験の日を迎えました。


合格発表の日は平日で、親だけが合格発表の掲示を見に行くことになっていました。20名の枠に何人の合格者が出ているのか想像もつきませんでしたが、結果は30名。かなりの人数の受験者だったので、この時点でも「よく残ったものだ」と不思議な気持ちでした。

その後、合格者だけが体育館に集められ、一般日本人合格者30名の中から、20名の最終合格者を選出する抽選が行われました。抽選方法は、福引などでよく見るガラガラです。ただし、このガラガラを回すためのくじ引きがありました。

1~30までの紙きれが入った箱から順番に引きます。くじ引きの順番は合格者の受験番号順。私は30名中2番目にくじを引きましたが、引いた番号は30番。要するに30人中の最後にガラガラを回すということです。当選20個、補欠5個、ハズレ5個が入ったガラガラを順番に回します。私より先に当選20個が出てしまったら、私には順番すら回ってこないかもしれません。

せっかく娘は作文と面接での選考で残ったのに、ここで私が外してしまっては娘に申し訳ないと思いながらも、ただ待つしかありませんでした。

当選者あり、補欠あり、ハズレありで、どんどん抽選は進んでいきます。残り少なくなるにつれ、先生方も当選の数を確認しながら次の抽選者を促します。

やっと29番目の人まで順番が回ってきました。回ってきたということは、当選か補欠がまだ残っているということ。前の男性の抽選を見守ります。玉が出た瞬間、そのお父さんはのけ反りました。声を発しません。後ろから見ていて、外したショックでのけ反ったように見えましたが、まだわかりません。

すると、先生が私にガラガラを回すように促してくれました。とりあえずはハズレ以外の何かが残っているということです。最初のうちは抽選が終わった人の様子を見ながら、当選者の数を数えていましたが、途中でもうわからなくなっていました。

出てきた玉は当たり!先生は「まぁ、よく最後まで当たりが残っていたわねぇ」という顔で私を見ながら微笑んでくれました。


娘は初めての受験に、合格発表までの数日間落ち着かないようでした。

「落ちているかなぁ?」

「きっと受かってるよ」

「なんで?」

「だって、ママすごくそんな気がするもん。だから大丈夫。でもね、もし落ちていても、それはそれで大丈夫。もしも落ちていたら、それはKちゃんがこの学校に行かないで家の近くの学校に行った方が、Kちゃんの将来にいいことがあるから、神様がそうしてくれているの。だから落ちても大丈夫。でも、きっと受かってると思うよ。」

私は娘を元気づけるためにこう言ったのではありません。本気でそう思っていました。もちろん、息子の受験の時にも言いました。

「ママ、受かってる気がする。」

「どうして?」

「だって、そんな気がするもん。Kちゃんの時もママそう言ってたでしょ。それで、そのとおりだったでしょ?でもね、もし落ちていたら、それは、K学院に行かない方がTくんの将来にとって良いことだから、神様がそうしてくれているんだから大丈夫。だってね、もともとママは、Tくんがどこの学校に行っても行く大学は同じ、って言ってたでしょ。べつに大学に行くために受験したわけじゃないしね。だからまぁ、ママはどっちでもいいんだけどね。」


今までの自分の人生を振り返ってみても、「こんな出来事、無ければよかったのに」と思うようなことが、意外と「これがあったからこそ、その後のこんなことに繋がった」ということがある気がしています。

あの日、PTA本部役員の選出などという憂鬱極まりない場に出ていくことになっていなければ、私はこの学校の存在すら知らずに、娘の小学校生活の終わりを迎えていたかもしれません。娘は中学以降、まったく違った毎日を送ることになっていたかもしれません。

あのとき、PTA本部役員に私を投票してくれた皆さんありがとう。おかげで娘は素晴らしい仲間と出会い、かけがえのない中学高校生活を送ることができました。

(次回は「●娘の大学受験」)


勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(1)

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