
猛暑!42.195㎞を駆け抜けろ!
「先頭!先頭です!日本の麦芽しぼり!ここで先頭に立ちました!」
あまりの暑さに全裸となり、ネクタイとヘッドセットだけを装着したアナウンサーが中継車から身を乗り出して叫び、先導の白バイ警察官に現行犯逮捕される。
「「「しーぼーり! しーぼーり!」」」
沿道を埋めた大観衆が、その眼前を疾走する1人の日本人女性に熱狂的な声援を送り続ける。
興奮した中年男性が全裸となり、ソックスだけを装着しようとしたが警備の陣笠ボランティア(日当なし)に取り押さえられる!
2X20年東京オリンピック最終種目、女子マラソンの盛り上がりは最高潮に達していた。
折り返し地点まで完全に独走態勢にあったエチオピア代表ハヤイハヤイ・ハシルーノが30㎞の給水所を通過したあたりから急激にペースダウン。
追走していた2位、フランスのロマネ・ロゼロゼと3位、日本の麦芽しぼりが一気に追いつき、これを抜き去ったのである。
麦芽は順調にペースアップ。
ロゼロゼも抜き去り、さらには突き放してトップ独走。
『中野区の麒麟』『地獄の右アッパー』『錠前の破壊者』『窃盗の前科3犯』『コカ・キャリアー』などの異名を持った父、麦芽しぼ太に続いての父娘2代五輪マラソン制覇まであと8㎞───。
突如、しぼりが腹を押さえて苦しみだした。
ペースが明らかに落ちる。
その背中を追うロゼロゼの口元には僅かな笑みが浮かぶ。
(フフフ...30㎞の給水地点にいたのはすべてフランスのスパイよ。貴女たちが口にしたのは冷たく美味しいビールじゃない、ワインよ。それもブドウはブドウでも黄色ブドウ球菌を使用した特製黄色ワインざます!)
残り2㎞。ロゼロゼがしぼりに並び、抜き去った。
「負けるな―」「がんばれー」「ログガドグボギン、ギボヂザバ!」
沿道から声援が飛ぶが、しぼりの足元は覚束ない!
「フランスの勝利ざます!」
競技場前のミスト地点。
ロゼロゼは両腕を広げ天を仰ぐようにしてミストを全身に浴びながらトラックに入ってくる。
大きな歓声と、はっきりとわかるようにそれに混ざる溜息。
(残念ざますねジャポネーゼども。勝ったのはこの妾......エッ!)
ロゼロゼのペースが突然落ちた。歩いているのと何ら変わらないペースだ。彼女は全身、特に口元に猛烈な違和感を覚えていたのである。
その後ろ。苦しみながらも2位のしぼりがトラックに入ってきた。
スタンドの観客たちもざわめく。
「しぼりがんばれー」「どうしたんだ?」「麦芽まだいけるぞ」「あとちょっとだ」「みんな何故か急にペース落ちてるな」「政府の陰謀では?」「ベルスグギギ、ロゼロゼ」
(どういうことざますか...!!)
朦朧とする意識に活を入れ、ロゼロゼは原因を探ろうとする。
眉間から垂れた一滴の雫が、唇の間に入り込み舌先を刺激した。
(まさか先ほどの.....!!)
世界的ソムリエでもある彼女の舌が感じたのは、まぎれもなくビールの味だった。
それも【ぜいたくな部分だけを使用することで麦の良さをより引き出し、上品で、かつ雑味のない味わいにすることに成功したKIRIN新一番搾りの味】であったのだ!
競技場前のミスト地点。麦芽しぼりは噴射されるミストを水からKIRIN一番搾りへと密かに変更していたのである!
「ワイン以外は泥水と一緒」と広言する彼女にとって、ビールを口にすることなどあってはならないことだった。
後方を振り返る。
2位しぼりのペースが先ほどより目に見えて早い。
彼女は目論見通り一番搾りパワーで黄色ブドウ球菌の毒素を消し去り、ある程度回復を済ませたのだろう。
このままでは追いつかれてしまう。
焦るロゼロゼ。
そのとき、また新一番搾りの雫が彼女の口元へと流れ落ちてきた。
こんな飲み物を摂取させられたのではエネルギーが出るわけもない。
選手に合わぬ飲み物を用意するとは何たる卑劣だろうか。
彼女は日本を呪った。
だが!だがしかし!このフランス人の舌は!脳は!全身の細胞は!
正直に過ぎる反応を示したのだった。
「あれ...ビールのくせに...これ...美味しいざます!」
全身に水分が染み渡っていくような感覚と共に、手足に力が戻る。
さあ走れ。ロマネ・ロゼロゼの、そしてフランスの栄冠はすぐそこだ。
ロゼロゼは加速する。
しぼりは追いつけない。
(ビールって素晴らしい飲み物ざますね...ッ!!)
満面の笑みでロマネ・ロゼロゼはゴールテープを切った。
遅れて入ってきたしぼりとガッチリ握手をかわす。
スタンドからは万雷の拍手。スポーツって最高だ!
表彰式。
レースに細工をしたロゼロゼとしぼりは失格となり、3位でフィニッシュしたハシルーノが金メダルに輝いた。
スポーツって最高だ!
【おわり】