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走れコロス (The die 治 著)

 コロスは激怒した。
 必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
 コロスには政治がわからぬ。
 コロスは、村の殺人鬼である。
 毒矢を吹き、躯と遊んで暮して来た。
 けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
 きょう未明コロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此このシ ラクスの市にやって来た。コロスには父も、母も無い。女房も無い。
 全員殺したので、十六の、内気な妹と二人暮しだ。
 この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として殺す事になっていた。
 結婚式も間近なのである。
 コロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
 先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。
 サツジンティウスである。
 今は此のシラクスの市で、石工をしている。
 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
 久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
 歩いているうちにコロスは、まちの様子を怪しく思った。
 ひっそりしている。
 もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。
 暢気なコロスも、だんだん殺気になって来た。
 路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈はずだが、と尋問した。
 若い衆は、首を振って答えなかったので殺した。
 しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、殺気を強くして質問した。 
 老爺は答えなかった。
 コロスは両手で老爺の首を握りつぶして尋問を続けた。
 老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
 「王様は、人を殺します。」
 「なぜ殺すのだ。」
 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
 「たくさんの人を殺したのか。」
 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
 「おどろいた。国王は乱心か。」
 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
 聞いて、コロスは激怒した。
 「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
 コロスは、単純な男であった。
 買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。
 たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。
 調べられて、コロスの懐中からはグレートソードが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。
 コロスは、王の前に引き出された。
「このグレートソードで何をするつもりであったか。言え!」
 暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。
 その王の顔は蒼白で、眉間みけんの皺は、刻み込まれたように深かった。
 「市を暴君の手から救うのだ。」とコロスは悪びれずに答えた。
 「お前がか?」
 王は、憫笑した。
 「仕方の無いやつじゃ。お前には、わしの孤独がわからぬ。」
 「言うな!」とコロスは、いきり立って反駁した。
 「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の殺意をさえ疑って居られる。」
 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、お前たちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
 暴君は落着いて呟やき、ほっと溜息ためいきをついた。
 「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」
 今度はコロスが嘲笑した。
 「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
 「黙れ、下賤の者。」
 王は、さっと顔を挙げて報いた。
 「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。お前だって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
 「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
 と言いかけて、コロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
 「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
 「ばかな。」
 と暴君は、嗄しわがれた声で低く笑った。
 「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
 「そうです。帰って来るのです。」
 コロスは必死で言い張った。
 「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にサツジンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっとほくそ笑んだ。
 生意気なことを言うわい。
 どうせ帰って来ないにきまっている。
 この嘘つきに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。
 そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。
 人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。
 世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。
 「願いを聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。お前の罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
 「なに、何をおっしゃる。」
 「はは。命が大事だったら、おくれて来い。お前の心は、わかっているぞ。」
 コロスは口惜しく、地団駄踏んだ。
 ものも言いたくなくなった。
 竹馬の友、サツジンティウスは、深夜、王城に召された。
 暴君ディオニスの面前で、佳よき友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。
 コロスは、友に一切の事情を語った。サツジンティウスは無言で首肯うなずき、コロスを死ぬほど殴りつけた。
 友と友の間は、それでよかった。
 サツジンティウスは、縄打たれた。
 コロスは、すぐに出発した。
 初夏、満天の星である。
 コロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。
 コロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに蟲毒の番をしていた。
 よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。
 そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」
 コロスは無理に笑おうと努めた。
 「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。明日、お前の結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
 妹は頬を赤らめた。
「うれしいか。綺麗きれいな衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、明日だと。」
 コロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って邪神の祭壇を飾り、呪宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚めたのは夜だった。
 コロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。
 そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。
 婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。
 コロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。
 婿の牧人も頑強であった。
 なかなか承諾してくれない。
 夜明けまで拷問をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。
 結婚式は、真昼に行われた。
 新郎新婦の、邪神への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
 祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に歌をうたい、手を拍った。
 コロスも、満面に殺気を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。
 祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
 コロスは、一生このままここに居たい、と思った。
 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。
 ままならぬ事である。
 コロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
 明日の日没までには、まだ十分の時が在る。
 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
 その頃には、雨も小降りになっていよう。
 少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。
 コロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。
 今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうお前には優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。お前の兄の、一番嫌いなものは、止めを刺さないことと、それから、いきなり急所を突く事だ。お前も、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。お前に言いたいのは、それだけだ。お前の兄は、たぶん強い男なのだから、お前もその誇りを持っていろ。」
 花嫁は、夢見心地で首肯いた。
 コロスは、それから花婿の肩を叩いて、
「仕度の無いのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、コロスの弟になったことを誇ってくれ。」
 花婿は揉み手して、照れていた。
 コロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、眠ったように深く死んだ。
 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。
 コロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
 きょうは是非とも、あの王に、自身の心臓が鼓動するところを見せてやろう。
 そうして笑って玉座に上ってやる。
 コロスは、悠々と身仕度をはじめた。
 雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
 身仕度は出来た。
 さて、コロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
 私は、今宵、殺す。殺す為に走るのだ。
 身代りの友を殺す為に走るのだ。
 王の奸佞邪智を打ち殺す為に走るのだ。
 殺さなければならぬ。
 そうして、私は殺す。
 どんなときでも自分を守れ。
 さらば、ふるさと。
 若いコロスは、つらかった。
 幾度か、立ちどまりそうになった。
 えい、えいと大声挙げて自身を殺しながら走った。
 村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止やみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
 コロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。
 妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。
 まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。
 そんなに急ぐ必要も無い。
 ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
 ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、コロスの足は、はたと、とまった。
 見よ、前方の川を。
 昨日の豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね殺していた。
 彼は茫然と、立ちすくんだ。
 あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚さらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。
 流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。
 コロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。
 「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
 濁流は、コロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。
 浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
 今はコロスも覚悟した。
 泳ぎ切るより他に無い。
 ああ、神々も照覧あれ! 
 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
 コロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の殺戮を開始した。
 満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も恐れをなしたか、ついに憐愍を垂れてくれた。
 押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。
 ありがたい。
 コロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。 
 一刻といえども、無駄には出来ない。
 陽は既に西に傾きかけている。
 ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
 「待て。」
 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。殺すぞ。」
 「どっこい逃がさぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
 「私には命の他には何も無い。その、たった一つの命も、誰にくれてやるつもりもない。」
 「その、命が欲しいのだ。」
 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。コロスはひょいと、身体を折り曲げ、飛鳥の如く身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
 「気の毒だが正義のためだ!」
 と猛然一撃、たちまち、三人を殴り殺し、残る者のひるむ隙に、さっさと殺して峠を下った。
 一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、コロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩歩いて、ついに、がくりと膝を折った。
 立ち上る事が出来ぬのだ。
 天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
 ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も殴り殺し韋駄天、ここまで突破して来たコロスよ。
 真の殺人鬼、コロスよ。
 今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情け無い。
 愛する友は、お前を信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。
 お前は、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。
 路傍の草原にごろりと寝ころがった。
 身体疲労すれば、精神も共にやられる。
 もう、どうでもいいという、殺人鬼に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
 私は、これほど努力したのだ。
 約束を破る心は、微塵も無かった。
 神も照覧、私は精一杯に殺して来たのだ。
 動けなくなるまで殺して来たのだ。
 私は不殺の徒では無い。
 ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 
 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
 けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
 私は、よくよく不幸な男だ。
 私は、きっと殺される。
 私の一家も殺される。
 私は友を欺いた。
 中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
 ああ、もう、どうでもいい。
 これが、私の定った運命なのかも知れない。
 サツジンティウスよ、ゆるしてくれ。
 君は、いつでも私を殺した。
 私も君を、殺さなかった。
 私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。
 いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
 いまだって、君は私を無心に待っているだろう。
 ああ、待っているだろう。
 ありがとう、サツジンティウス。
 よくも私を殺してくれた。
 それを思えば、たまらない。
 友と友の間の殺意は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
 サツジンティウス、私は殺したのだ。
 君を殺すつもりは、微塵も無かった。
 信じてくれ! 私は殺しに殺してここまで来たのだ。
 濁流を殺した。
 山賊も殺した。
 一気に峠を駈け降りて来たのだ。
 私だから、殺せたのだよ。
 ああ、この上、私に望み給うな。
 放って置いてくれ。
 どうでも、いいのだ。
 私は負けたのだ。
 だらしが無い。殺してくれ。
 王は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。
 遅れたら、身代りを殺して、私も殺すと約束した。
 私は王の卑劣を憎んだ。
 けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。
 私は、遅れて行くだろう。
 王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を処刑するだろう。
 そうなったら、私は、死ぬよりつらい。
 私は、永遠に殺人鬼だ。
 地上で最も、不名誉の人種だ。
 サツジンティウスよ、私も死ぬぞ。
 君と一緒に死なせてくれ。
 君だけは私を殺してくれるにちがい無い。
 いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、聖人として生き伸びてやろうか。
 村には私の家が在る。羊も居る。
 妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。
 正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
 人を殺して自分が生きる。
 それが人間世界の定法ではなかったか。
 ああ、何もかも、ばかばかしい。
 私は、醜い裏切り者だ。
 どうとも、勝手にするがよい。
 やんぬる哉――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。
 そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
 すぐ足もとで、水が流れているらしい。
 よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁ささやきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにコロスは身をかがめた。
 水を両手で掬って、一くち飲んだ。
 ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
 殺せる。行こう。
 肉体の疲労恢復と共に、わずかながら野望が生まれた。
 暗殺実行の野望である。
 わが身を殺さず、相手を殺す野望である。
 斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
 日没までには、まだ間がある。
 私を、待っている人があるのだ。
 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
 私は、信じられている。
 私の命なぞは、問題ではない。殺してお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。
 私は、王を殺さなければならぬ。
 いまはただその一事だ。殺せ! コロス。
 私は信頼されている。
 私は信頼されている。
 先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。
 悪い夢だ。忘れてしまえ。
 五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。
 コロス、お前の恥ではない。
 やはり、お前は真の殺人鬼だ。
 再び立って殺せるようになったではないか。
 ありがたい! 私は、正義の士として殺す事が出来るぞ。
 ああ、陽が沈む。
 ずんずん沈む。
 待ってくれ、ゼウスよ。
 私は生れた時から正直な男であった。
 正直な男のままにして殺させて下さい。
 路行く人を押し殺し、跳ね殺し、コロスは黒い風のように走った。
 野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを轢殺させ、犬は蹴とばさず、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く殺した。
 一団の旅人を颯っと殺した瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
 「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」
 ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに殺しているのだ。
 その男を殺さなければならない。
 殺せ、コロス。
 遅れてはならぬ。
 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。
 風態なんかは、どうでもいい。
 コロスは、いまは、完全なる全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。
 見える。
 はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。
 塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、コロス様。」
 うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」コロスは殺しながら尋ねた。
「コロストラトスでございます。貴方のお友達サツジンティウス様の弟子でございます。」
 その若い石工も、コロスの後について殺しながら叫んだ。
 「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお殺しになることは出来ません。」
 「いや、まだ陽は沈まぬ。」
 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
 「いや、まだ陽は沈まぬ。」
 コロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。 
 殺すより他は無い。
 「やめて下さい。殺すのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、コロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
 「それだから、殺すのだ。信じられているから殺すのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に殺しているのだ。ついて来い! コロストラトス。」
 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと殺すがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。殺すがいい。」
 言うにや及ぶ。
 まだ陽は沈まぬ。
 最後の死力を尽して、コロスは走った。
 コロスの頭は、からっぽだ。
 何一つ考えていない。
 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて殺した。
 陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、コロスは疾風の如く刑場に突入した。
 間に合った。
 「待て。その人を殺すのは俺だ。コロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
 と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉のどがつぶれて嗄しわがれた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。
 すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたサツジンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。
 コロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を引き裂き、引き裂き、
 「私だ、刑吏! 殺すのは、私だ。コロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
 と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。
 群衆は、どよめいた。
 あっぱれ、殺せ、と口々にわめいた。
 サツジンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「サツジンティウス。」
 コロスは眼に殺意を浮べて言った。
 「私を殺せ。力一杯に胸を抉れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殺してくれなかったら、私は君を殺害する資格さえ無いのだ。殺せ。」
 サツジンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場がドン引くほど深くメロスの左胸を貫いた。
 殴ってから優しく微笑み、
 「コロス、私を殺せ。同じくらい深く私の胸を抉れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殺してくれなければ、私は君を殺害できない。」
 コロスは腕に唸りをつけてサツジンティウスの胸を抉った。
 「ありがとう、友よ。」
 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。
 暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。
 「お前らの望みは叶ったぞ。お前らは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、ブーイングが起った。
 「殺せ、王様を殺せ。」
 ひとりの少女が、緋のマントをコロスに捧げた。
 コロスは、まごついた。 
 佳き友は、気をきかせて教えてやった。
 「コロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、新たなる王の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、王の返り血で赤面した。

──── 終 ────

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