#6 そも、文字は読まれるものじゃね?
プロットコンテストの結果発表が延期ということで、出すアテのない推敲をつらつらと重ねるのもつまらなく、こちらの賞にも参加することにした。
べつに人に見せられるほど彩りのある毎日を送っているわけではないが、日記ぐらいなら帳簿のついでに付けているので、出すだけならカロリーゼロ、あわよくば今晩のメシにひと品足せる程度の賞金(というか掲載料)も稼げる。出し得というやつである。
日記は、読んだ資料の目録を作るのが面倒という理由で学生時代に始めた。たしか事故のときフォーサイスの紛失届を提出しなかったせいで、3万円ばかり大学に延滞料を支払う羽目になったのがきっかけだった気がする。
まあ、読み返すともちろんひどいわけだ。芯のできていない青年期に無理に軸の通ったことをやろうとしたせいで、偉そうなことを言ってるわりに何も響いてこない。
だいたい文章は不特定多数のコミュニティに向かい発信するものという了解が当たり前の昨今、こうやって誰に向かってベクトルを付けているわけでもなく文字を並べる日記というのは、かなり異形の文章形式じゃなかろうか。
自分を見つめると銘打つ私小説とて、しょせんターミナルの部分では読者に目がけた限りなく『ワタクシ』に近いフィクションの開陳という体裁であるし、ブログやSNSのつぶやきは言わずもがな。意識の有無にかかわらず、読者の目を前提にした文章である。
鍵をかけてポンと机に放り込む日記は、いったいどこに向けて書いてるんだろうか、と今回のコンテスト向けに『かっこつけた』日記を書きつつ思う。
こういうとき思い出されるのが灰谷健次郎の兎の眼に出てくる『上手い作文の書き方』という授業での言葉だ。
正確なところは手元にないので間違えているかもしれないが、
・本当にあったことは書くな
・思ったことを書け
というのがポイントだったと記憶している。
「朝は暑かった」というのは無味乾燥でクソつまらん文章だが、「朝からアイスみたいに溶けるかと思った」と書けば文章単位では前者よりは面白くなる、という話である。たぶん。知らんけど。
で、それ日記として真摯なん? という話なのよね。
後付けで面白くさせるのはもう小説だ。本当にそのとき感じたことを正確に記録してこそ日記という媒体だろう……と私は考える。
改めて、日記コンテストである。
三日だけ、ほんのりと詩人にでもなりきって生活しようと思う。嘘くせえな。