色々な“過ぎる”物事を見直す時では?
一つの疫病が世界を席巻し、多くの人命を奪い、経済に深刻な打撃を加えている。皮肉にも、人々の活動が停止するという事は社会や経済が連鎖や循環し成り立っているという事を改めて浮き彫りにさせた。
こんな惨状の中、偶然か必然か原因は不明だが、他にも皮肉にも浮き彫りになったことが複数ある。
・大気汚染の改善
・水質の改善
・北極のオゾンホール消滅
言われ始めた“アフターコロナ”。私はそれを大局観を以て意見したいと思う。
終息にはならず収束になるであろうこの疫病。その時を多くの人が待ち望んでいるであろう。そこで考えるべきは“何を”待ち望んでいるのか?である。一番は“以前の様な元の生活”であるに違いないだろう。しかし、それは本当にそうなっていいのだろうか?
所見はタイトル通り、以前は“過ぎる”物事が余りにも多すぎたのではないだろうか?と考えているので、額面通りの“以前の様な元の生活”に戻るべきではないと強く考える。
外出自粛でストレスが溜まると言うが、“以前の様な元の生活”に戻れば、そのストレスは解消しても、“以前の様な元の生活”で生じていた様々なストレスが再度溜まることになるであろう。
ストレスに限らず、“以前の様な元の生活”に戻れば、大量のフードロスをはじめとする様々な“無駄”を再発させることになるだろう。
“以前の様な元の生活”に戻ろうとする前に、一人一人が考え直すことが沢山あるのではないだろうか?それらは過去の様々な”過ぎたこと”を見直し、改めた上で未来に臨むべき事ではないだろうか?
・無駄が多過ぎ
・自分勝手過ぎ
・大量に作り過ぎ
・我慢し無さ過ぎ
・政治に無関心過ぎ
・他人を羨み過ぎ
・他人と比較し過ぎ
・他人を批判し過ぎ
・他人に依存し過ぎ
・他人に気を遣い過ぎ
・他人に責任転嫁し過ぎ
・他人の事を考え無さ過ぎ
・物事を深く考えて無さ過ぎ
“足るを知る”と言う言葉を忘れたのか知らぬのか?
衣類や食料をとっても、豊富に陳列されている裏には大量廃棄が行われている。低価格である裏には粗悪な原材料使用や強制労働を強いられている労働者がいる。
何でもビニール袋に入れてもらわねばならないのだろうか?そのビニール袋一つでどれ程の大気汚染や自然環境破壊や野生動物虐待が行われているか認識しているのだろうか?
”感恩報謝”や“自助努力”と言う言葉を忘れたのか知らぬのか?
自分だけが良ければそれでいいのだろうか?してもらって当然と思っていないだろうか?自分がやるべき事を120%やっているだろうか?義務を果たさず権利を主張していないだろうか?一面だけとらえて断定していないだろうか?無料が当たり前と思っていないだろうか?
自己確立されぬままの大人が氾濫しているのが現代社会と思う。平たく言うと、自立出来ていない大人が年齢だけ大人として大人のフリをしていると思う。
この疫病がパラダイムシフトをもたらしたことは間違いないだろう。平易な表現をすれば“ピンチはチャンス”。これを機に“過ぎる”物事を改め、“足るを知る”上で物心両面の豊かな暮らしが実現できることを願う。