1人の時間が私に教えたこと。
東京を離れ、広島、大阪で暮らしたことで、友達がいない状況を作り出せた。
何をやっても,始めても誰にも何も言われない、話すことのない1年半。
もともと1人が好きな方であるため、寂しいこともなく、自分の心に向き合えた時間。
こうでもしないと、自分と向き合うこともしないで、ただただ時間が流れたんだと思うと少し怖くも感じる。
大抵の人は、このように時間が過ぎているのかもしれない。
少なくとも、過去の私はそれだったんだと気が付くことが出来た。
物理的に時間がないのではなく、ゆとりとスペース無かったのだ!
今に いる。 事は、現代の社会ではとても難しい。
認知症になるくらいじゃないと、本当の今にいることは出来ないかもしれない。
だから、頑張り続けてる人、スケジュールに追われていた人が、人生の最後に今を味わうんだと思う。
東京に戻ってきて1ヶ月がたとうとしている。
じわっと昔のせわしない感覚が戻ってくる。
もう一方で、時間があるからといって、何かが出来るわけでもない。
物理的に会える距離に自分を知る人がいると言うだけで、周りの意見も気にしている自分がいる?
いたんだなと理解させてもらった。
だけど仕事をしていない私は、誰にも命令されていないのでやらなくてはいけないことはない。
今までは、
言われたからやる。
やらないといけないからする。
怠けていると思われるから動く。
誰かの目で見て、自分の目でない勝手に作り上げた監視下に命令されて行動していたようだ。
メディアに踊らされたくないと思い、テレビを捨て。
病院で薬ずけになりたくないと、食事を変え。
ごまかした商売がしたくないと、仕事を辞めた。
けれど、1番騙されていたのは、重ね積み上げられてきた自分の思考だ!
子供の頃から、小さな???おかしいな?をだんだん言葉にしなくなったことで、
小さな「おかしいな?」に、気づけなくなってしまっていたんだ。
1人きりの1年半を体験していなかったら、この繊細な感覚と違いには気が付かないと思う。
今、自分が何に心を持っていかれているか?
自分の感覚に忠実か?
頭をよぎったのは、本音か?恐怖からか?世間の目を気にしているのか?
周りの意見、友達の自分への評価みたいなもの、そんなことを気にしながら生きていることさえも無自覚になってしまうくらい、自分の心を聞いてあげれてないんだなぁと思った。
そんなことに、今更気がついてしまった。
そのために、デジタル機器が私から距離を取ったとしか思えない悲劇的な喜劇がおこりました。
その話は、また次回。
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