幸せについて
数年前に幸せについての授業を教科「情報」の時間がクラスによって余ったので、やったことがあります。そうしたらやれなかったクラスの生徒からやりたかったと言われました。あらためて、「幸せ」というテーマは皆の関心が大きいのだと思いました。
幸せは、誰でもが求めています。
物質的なことを幸せであることの目標にする方が多いです。もっとお金が欲しい、良い車が欲しい、贅沢をしたいなどあげたらキリがないです。
安心安全な暮らしを幸せであることの目標にする方もいます。人間関係がうまくいっている、どこかに所属している、安定した会社で仕事をしているなどがあるでしょう。
名声を幸せであることの目標にする方もいます。
自分自身が自由に行動できることが幸せであることの目標にする方もいます。
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皆、求めるものは違うけれど、目標とするものがあって、その目標が得られたら幸せになると思っているのです。
ところが
「幸せ」そのものを求めたら、望むものはすべて簡単に叶えられる
と多くの賢人やスピリチャルな人々は、言っています。
例えば、聖書で、キリストが「天の国をまず求めなさい、そうすれば必要なものはすべてかなえられる」と話しています。
多くの方が、
「私はお金をたくさん持っているから幸せだ」
「私は、友達が多く人間関係も良好だから幸せだ」
「私は、やりがいのある仕事をしているから幸せだ」
「私は、平和でこことよい家族に囲まれているから幸せだ」
『私は、・・・・・・・・・・・だから幸せだ」
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と、話します。
これらは、すべて自分の外の出来事に依存しています。その外の状態が変わってしまうと困ることになるのです。幸せでなくなり、やけ酒・やけ食などに陥ってしまいます。または一時的な快楽や中毒的な行動に走ってしまう恐れもあるのです。
これら自分の外の状態に依存している幸せは、真の幸せをもたらしません。
本当の幸せは、私たちの内なる世界の意識の状態によるのです。私たちは、自分の内的な状態で自分の周りの世界をどのように把握し経験するかを決めているのです。ですから同じ出来事が起こってもあるひとは幸せを感じ、あるひとは幸せを感じないのです。
私は、プロテスタント系の学校で教えていたことがありました。そこでは、さかんに、「内なる光」と話していました。今思えば、大変大事なことを話していたと思います。私たち人間は、内なる光を放ちなさいということでしょう。それが幸せの元なのですと。
つまり、私たちが幸せを感じる時、その幸せは内なる喜びの素、内なる自己、内に宿っている創造主との繋がり、から来ているのです。
先にあげたある条件の元での幸せは偽りの幸せであって実は不幸なのです。
本当の幸せは、「無条件の幸せ」なのです。この幸せこそが本当は皆が求めている幸せなのでしょう。
私たちは皆、内側に「内なる幸せな意識状態」を持てるのです。
先のキリストの言葉
「天の国をまず求めなさい、そうすれば必要なものはすべてかなえられる」は、「内なる幸せな意識状態をまず求めなさい、そうすれば必要なものはすべてかなえられる」
と言い換えても良いでしょう。
日々の生活に忙殺されて、社会の様々な出来事に翻弄されて内なる幸せが見えなくなっているのです。毎日、朝起きたら今日も元気にいる幸せを感じる。昼前にお腹が空いたという幸せを感じて、美味しい食事を何人かで話しながらできた幸せを、帰り道で道端の綺麗な花をみて幸せを感じる。至る所に幸せは転がっているのです。気がつかないだけ!! なのかも!!
自然の流れに従って生き、内なる幸せを周りに表していけばいくだけ、宇宙がまるで私たちの望みを知っているかのように、私たちの望みはかなえられていくのでしょう。
今日も生きていることの幸せを感じ、感謝でいっぱいです!!