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『呪われたオリンピック』から『呪いを解くオリンピック』へ。

東京オリンピック・パラリンピック大会の開会式で音楽を担当するコーネリアス・小山田圭吾氏が、小学生から高校生にかけての学生時代に知的障害のあるクラスメイトに対して激しいイジメをしていた事実が大きく報道され、日本中や世界中に波紋が広がっている。

重度の知的障害のある作家と共にクリエイションをするヘラルボニーの代表として、今回の動向を静観するのではなく今現在心に抱いている率直な気持ちを記そうと思いました。それは、オリンピック・パラリンピックを交えて政治批判をしたいということでは決してなく、障害福祉の世界をより良い方向に導きたいという強い思いからです。

小山田圭吾氏の「人格の問題」だけではなく、社会全体の集団加担である事実を認めよう。

今回の一連の報道は、小山田圭吾氏の学生時代の人格が破綻していたから起きたという安直なことでは決して無い。

記憶にも新しいのは、障害者雇用の水増し問題、旧優生保護法、神奈川県相模原市の施設で起こった障害者施設殺傷事件、どれもこれも全て「障害=欠落」であるという社会側による決めつけが起こした惨劇に思えてならない。

私たちはまず、障害者そのものを欠落の対象として扱ってきた経済の仕組みや、笑い者にしていい雰囲気を醸成してきたメディア報道など、社会全体の集団加担により生まれた悲劇だということを自覚して認めることからはじめるべきだと思うのだ。

「障害者」を標的にする社会を、終わらせよう。

「お前、スペかよ(自閉症スペクトラム症の略称)!」

という言葉が、私の中学時代に大流行した。自分自身の兄は重度の知的障害を伴う自閉症だった私にとって「スペ」はあまりにも辛く、迎合して笑わなきゃいけない瞬間は地獄でもあった。

「スペ」は予想以上のスピードで瞬く間に広がりを見せ、中学校内で有名な言葉になった。勉強やスポールができないと知ると「お前、スペかよ (笑)」という言葉が浴びせられる。

つまり「障害者」はイジメをする側にとっては非常に便利な存在なのだ。何故なら、本人たちはその言動に対して反論する可能性が著しく低いからだ。

私の兄も、挙動不審のルーティン化された行動や、同じ言葉を何度も発する独り言など、同級生に真似されている瞬間を見たことがある。

きっとあの瞬間だけではないだろう。私が知らないうちに馬鹿にされていたこともあったに違いない。しかし重度の知的障害のある兄は「誰にどんなことをされたのか」「なぜ嫌なのか」言語化して伝えることは難しい。想像すると非常に苦しくなるけれども、自分自身が馬鹿にされていることすら把握できない可能性もある。

今回の小山田圭吾氏やそのグループも、本人から仕返しや反撃を受ける可能性が著しく低い障害のある人をイジメの対象に選んだことは、やはり卑劣だと思う。しかし、その雰囲気や行動が現実に生まれてしまう社会を作っているのも、私たちであるということを忘れてはならない。

この世界には「善意」に隠れた無自覚な差別が存在し続けている。


小山田圭吾氏が生まれて間もない頃、神奈川県横浜市で「脳性麻痺児殺害事件」が起きた。脳性麻痺のある子の育児・介護に疲れた母親が、我が子に手をかけてしまった事件である。

事件後に周辺住民により「母親は可哀想だった、減刑してあげてくれ。」と署名活動が展開されたのだ。つまりは小山田圭吾氏の幼少期には「障害児を育てるのは大変な苦労があり、生まれること自体が気の毒で、殺されても仕方がない」という思考が存在していたことになる。私がこの事件を通じて伝えたいことは、

『この世界には「善意」に隠れた無自覚な差別が存在し続けている事実だ』

小山田圭吾氏はインタビューの中で、障害のある人を全裸にしたこと、自慰行為を強要したこと、ダウン症の人がみんな同じ顔のことなど、とても楽しそうにコミカルに答えている。これは結局のところ、

お世話になっているメディアやインタビュアー、そしてその先の読者を楽しませようとする「狂気に満ちた善意」なのだと理解した。

人は不思議な生き物だ。ひとつ線を引くだけで国境が生まれ戦争が起きてしまう。ひとつ線を引くだけで障害者とレッテルを貼られイジメの対象になってしまう。私たちは、知らず知らずのうちに線引きをしながら生きていることを自覚する必要がある。

自宅で、学校で、オフィスで、公共空間で。私たちの何気ない言動の善意は果たして善意であるのか、いまいちど問い直すべきなのだ。

「呪われたオリンピック」から、障害のある人に対して理不尽にかけられ続けてきた「呪いを解くオリンピック」へ。


私が声を大にして伝えたいことは、いまなお鳴り止むことのない「小山田圭吾氏のみを標的にする批判をやめましょう」ということ。それ以上に、偏見が根強く残り続ける社会や、その仕組みそのものに問題があることについて、議論を費やすべきだと思う。

今までの世界で、欠落の対象として障害のある人を扱ってきた事実を認め、これを機にこんな社会を終わりにするべきなのだ。

今回の「炎上」は「国民的対話」のきっかけと捉えることもできる。

これが契機となり、「障害者」を取り巻く先入観が取り除かれ、一人ひとりの「個人」に光があたる多彩な社会が生まれるかもしれない。冗談ではない、事実可能性として有り得る話だ。

「呪われたオリンピック」と揶揄する前に、私たちは障害のある人に対して理不尽にかけられ続けてきた呪縛を理解し、「呪いを解くオリンピック」にしなければならない。


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