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障害が、私と人類を進化させる。だからへラルボニーで挑む。

34歳にして突然、障害当事者になりました。

これまでの人生を振り返ると、普通の学校に通い、普通の大学を卒業して、普通に就職して、普通に結婚してーー。

東京で働く、アラサー女子。圧倒的マジョリティ。それが私のはずでした。

ところが、私のお腹には、初めて妊娠した赤ちゃんだけでなく、大きな悪性腫瘍がすくすく育っていました。末期の原発不明がんでした。

突然、重ったるい話をしてしまってごめんなさい! ヘラルボニーを応援してくださる皆さま、ふらっと立ち寄ってくださった皆さま、初めまして。2023年8月にヘラルボニーに入社をいたしました海野優子(うみの・ゆうこ)と申します。

私は今から5年前、末期がんを宣告され、その影響で左脚が動かず現在車椅子で生活をしています。へラルボニーでは、記念すべき車椅子社員第一号。現在ECチームのマネージャーを務めています。

今回は、私が障害当事者になるまでのこと、障害当事者として働いたときのこと、そしてへラルボニーに出会い、再び「障害」というテーマを軸に人生の炎を燃やし始めるまでをお話させてください。


病気になる前のあだ名は 「社畜の海野」

病気になる前までの私は、とにかく仕事人間でした。当時は自身で立ち上げたwebメディアのプロデューサーをしており、広告出稿してくださるクライアントさんを探すため、自由に動く足を使って毎日営業を兼ねてイベントに顔を出したり飲み歩いたりしていました。あまりに仕事が好きすぎるので、同僚からは「社畜の海野P」と揶揄されていたという黒歴史があるほどです。(呆れながらもついてきてくれる、愛情深い最高の仲間でした!)

特に私自身、何か秀でた能力があるわけでもなかったので、優秀じゃない自分が人並みに成果を出すには人より頑張るしかないと思っていました。そう考えていくうちに、「仕事を頑張る」ということが私の大切なアイデンティティになっていったように思います。

なんとなく私の計画では、20代はがむしゃらに仕事を頑張り、30代前半で結婚、1人目の子供を出産し、3〜4ヶ月で職場復帰して30代後半は新規事業を立ち上げてマネジメントを経験する。2人目もサクッと産んで、40代ではそこそこ大きな事業と組織を任されてより責任のある仕事をしているーー。そんなキャリアプランを描いていました。

結婚して妊娠が分かったときも、当時の上司に「ソッコー産んで、ソッコー戻ってくるんで!私のポジション、空けといてくださいね!」なんて念を押して産休に入ったのを覚えています。

出産と同時に、末期癌を宣告される

しかし、あっけなく私の人生プランは崩れ去ることになります。

帝王切開で娘を出産した際、お腹の中に直径14センチにもなる大きな悪性腫瘍が見つかり、末期の原発不明癌と宣告されました。

それまでのキャリアはいたって順調。予定通りに進んでいました。ところがここに来て突然、物理的に仕事を手放さざるを得なくなりました。しかも、お腹の中の腫瘍は背骨に浸潤しており、手術で取り除くことは不可能。腫瘍による神経圧迫で左足は麻痺し、歩くことすらできなくなりました。

宣告される5年くらい前に実父を末期の肺がんで亡くしていたので、自分もあと数ヶ月で死ぬのだと容易に想像できました。仕事ができないどころか、歩くことも、生きることすら難しいという最悪の状況で、夢を見ているのではないかと疑うくらい、初めは現実を受け入れられませんでした。そして最も辛かったのは、最愛の夫に加え、0歳の娘をこの世に置いたままこの世を去らねばならないという、目を背けたくなる事実ーー。

当たり前にあると思っていた未来がなくなってしまい、絶望感でいっぱいになりました。当時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられます。

治療に専念するため生まれたばかりの我が子を乳児院へ。
自宅に連れて帰ることができる唯一の週末、束の間の癒し時間。

おそらく私が生きられる確率は1%にも満たなかったはずなのですが、死んだ父が神様に頼んでくれたのか、あるいは執念で医学論文を読みあさっている夫を神様が見かねたのか・・・。理由は定かではありませんが、いくつかの治療が功を奏し、私は奇跡的に命をつなぎ止めることができました。

障害のある人とない人が、ともに働くことの難しさ

1年間の闘病生活を終えて、車椅子で職場復帰!
当時働いていたメルカリのみんながランチ会を開いてくれた

車椅子で職場復帰を果たしたとき、私にとって大きな出来事がありました。

当時メルカリという会社で研究開発組織のPRを担当していたのですが、あるとき、某大学との共同リリースで、大学のキャンパスで記者会見を行うことになりました。PR担当だったので、プロジェクト担当として積極的に動かなければいけないはずの業務。ところが、車椅子だったため古い大学のキャンパスのバリアフリー対応状況が見えず、そもそも現地に入れるのか?エレベーターはあるのか?トイレはどうするのか?など、確認事項が多すぎて、どう動けば良いのかわからなくなってしまいました。

スピード感を求められる仕事です。周りの同僚たちは優しい人たちばかり。皆さん私に気を遣ってくれて、どんどん仕事を巻き取ってくれました。これは誰も悪くないのですが、結果的に、私はほぼいないものとしてプロジェクトが進行していきました。このとき、障害のある私よりも、障害のない人が遂行したほうが効率が良い、つまり生産性が高い仕事があるということに気がつきました。

誤解をしていただきたくないのは、決して前職のメンバーのことを非難しているわけではありません。私自身も、この時どう動けばよかったのか、何と伝えればよかったのか、いまだに答えを出せていません。

組織の中で生産性とスピードが求められるのは当たり前のこと。おそらく、私はこのとき初めて障害のある人とない人がともに働くことの難しさを本当の意味で理解したように思います。

この経験をきっかけに、組織の中で障害当事者として働くことについて考えを深めるようになりました。また、障害のある社員と、障害のない社員との相互理解の必要性も強く感じるようになり、メディアやPRの仕事から、全く畑の違う人事部・障害者雇用チームに異動することにしました。

障害者雇用チームで学んだ「できないを認める力」

自分が障害当事者になるまで「障害者雇用」という枠があることすら認識していませんでした。お恥ずかしながら、このチームに入るまで障害のある人とお話ししたことすらありませんでした。

障害といっても種類によってかなりの違いがあり、特に精神障害は、身体障害のように目に見えないだけでなく、ADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)、LD(学習障害)など、特性もそれぞれ異なります。

障害者雇用のチームでは、聴覚障害と精神障害のあるメンバーのマネージメント、パラアスリートのサポート業務などを担当しました。今振り返っても、この経験は私を何倍も成長させてくれたと実感しています。

学んだことは数え切れないほどあるのですが、何より私にとっての大きい学びは、仕事において「できないこと」を認めることの難しさです。人間は、自分が頑張って乗り越えた、あるいは克服したという自負があることほど、他人にもそれを求める傾向にあるような気がしました。できる人ほど、人の「できない」を認めづらいのでは?という仮説です。

多様性を受け入れることは、今では誰もがその重要性を理解していると思うのですが、異質性の高いものを認めるということよりも、実は「できないを認める」の方が何倍も難しいのではないかと考えるようになりました。

才能が100%解放された異彩作家

その人の「できない」を認め、チームで同じ目標に向かうためには、必然的にその人の秀でている部分を見つめる必要があります。このことに気が付いてからは、できないことの課題解決よりも、相手の良さが最大限発揮されるためにできることを考える、という思考になりました。

知的障害のある作家のアートをみたとき、アートとしての質の高さはもちろんなのですが、その作家の才能が100%解放されている、つまり、そこにブレーキをかける人が誰一人いない優しい世界に感動しました。入社して改めて知ったことですが、このような環境を昔から作り上げておられる福祉施設の皆さんの人間性の高さには、心から尊敬の念を抱いています。

ヘラルボニーのミッションである「異彩を、放て。」は、まさに私が障害者雇用で学んだことの本質でした。誰もが自分の「異彩」を発揮できる世界になったら、なんて素晴らしいだろうかーー。

同時に、こんなにも素晴らしい気づきを人間に与えてくれる障害が、どういうわけか、組織のDE&I推進の文脈で語られる機会は極めて少なく、置いてけぼりにされているような感覚がありました。

その理由のひとつは、「障害」という言葉が既に持っている「欠落 / 欠如」などのネガティブなイメージによって、腫れ物のように扱われてしまい、その実態や課題に焦点が当たりづらいことがあげられると思います。

ヘラルボニーの仕事にワクワクする理由

そういった課題感を持っていたということもあり、へラルボニーが「障害のイメージを変える」という難しいミッションに挑戦していると知ったとき、すでにそのミッションが自分ごと化されており、「自分がやらなきゃ」という使命感を感じました。

「使命感」なんてかっこいい言葉を使ってしまいましたが、正直にいうと「ただただ面白そう!」と思ったというのが、ヘラルボニーに来た一番の理由です。

私がヘラルボニーの仕事にワクワクする理由は、ひとつは課題の難易度が高いことです。障害をテーマにビジネスをするという前例のないチャレンジであること。ふたつ目は、障害という分野にはまだまだ私の知らない世界が眠っていて、それを深掘りしてみたいという探究心と、課題解決に向けて思考することへの好奇心。3つ目は、人類にとって未開拓な「障害」というテーマが、実は私たちに新しい叡智や感性、価値観を与えてくれるのではないかという期待感があるからだと思います。

知的障害、聴覚障害、精神障害……この歳になっても、障害については知らないことばかり。当事者になったことで初めて障害というものが私をひと回りもふた回りも成長させてくれることに気がつきました。

障害は、組織におけるDE&Iを必ず進化させると思います。世の中にいる全マネージャーに、一度でいいから障害のある人と一緒に働いてみてほしいです。びっくりするほど気づきに溢れているはずだから。

ここには、人類がより豊かに幸せに生きるためのヒントが眠っているに違いない。私と人類を、もっと進化させてくれるはず。それが、私が障害をというテーマに取り組む理由です。

私の人生に絶対必要なものは2つだけ

がんになって5年。昨年12月39歳の誕生日を家族と一緒に。
大好きなふたりと一緒にいられる奇跡を噛み締めました。

がんという病気を経験し「死」を間近に感じたことで、しんどい思いもたくさんしたのですが、良かったこともあります。

ひとつは、なんでもないことやネガティブなことが全て、生きていることを実感できるイベントに変わったこと。私にとっては、今こうしてテレビでゲームをしている夫を眺めながら3%の氷結を片手にnoteを書いている時間も特別です。先日、昔の同僚が彼氏にフラられて泣いているのを見て「命の輝き」「生命の尊さ」を実感してしまい、感動して涙が出てしまいました。

また闘病中は、大好きな仕事をすることや歩くことだけでなく、たくさんのことを失い、諦め、手放しました。抗がん剤で髪の毛を無くしたり、治療に専念するため、0歳の娘を1年間乳児院に預け一緒に生活することも諦めました。薬の副作用で腸閉塞になったときは、大好きなお寿司や焼肉を食べることができませんでしたが、「仕方ない!」と現実を受け入れてました。

大変辛い経験でしたが、当たり前にできるはずのことをたくさん手放したことによって、私にとって本当に大切なものがクリアに見えるようになりました。私の人生において絶対に譲れない大切なもの。それは大きく2つだけでした。1つは「家族と一緒にいられること」。もう一つは「ワクワクする仕事」。これだけあれば、私はこれからも幸せに生きていけると思います。

へラルボニーで過ごす毎日は、まさにワクワクの嵐。この船に乗ることができて、本当に幸せです。圧倒的マジョリティだったはずの私が障害当事者になったのは、この仕事に出会うためだったのかも。面白いのでそんなふうに考えるようにしています。

私の人生を豊かにしてくれた障害に、ありがとう。そして、へラルボニーを起業してくださった松田両代表、そしてお兄さんの翔太さんにも、心から感謝します。

これからも、障害という名の個性を生かして、へラルボニーのある人生を楽しみます。世界80億人の、まだ見ぬ異彩が放たれた、そんなエネルギー溢れる素晴らしい世界を夢見て。


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