少数派に傾いているのは Woo yeah 恥じらいの現れ
今回はGAGAでいちばん印象的なフレーズがタイトル。
本も音楽もベストセラーには興味がなく、大衆的なものを忌避してきた人生の中で、私が今、この巨大なファンダムにいるのは、自分でもとても不思議なことだ。
自分の価値観が全てであり、美は自分のセンスのみで判断する、という傲慢な思想で生きてきたのに、この一年、与えられた大衆的な愛らしさに溺れて生きてきた。
自分の中に新しいカルチャーを受け入れる力がまだ残っていたことに驚き、Twitterで新しく知り合った魅力的な友人達を愛し、誰かのLikeやLoveに触れることで、新しい感性の窓がたくさん開いた。
ただし、人間の本質なんてそうそう変わらない。
私は寿司ネタが大きいと気持ちが萎える、というひねくれた人間のままだった。
変わりゆく彼らをそれでも愛し、一年の活動の記録であるmemoriesを購入したけれども、Twitterのタイムラインであまりにもmemoriesの違法アップロードが流れすぎていて、二日遅れで手元に届いた今、すでに視聴したいという気持ちが薄くなっている。
「拡散」や「共有」は楽しいけれど、「氾濫」を認識すると一気に興味を失う。
(言葉による感想の類は、めちゃくちゃ楽しんで受け入れているので誤解なきよう。)
初期の頃、わけもわからず流出画像や動画をみたこともあったし、今更、正義を振りかざすつもりはないけれど、こうして、自ら購入したものにさえ、静かに興味を失うタイプの人間が存在することを知って欲しい。
まあ、僻地からこんなことを言っても、仕方ないし、自分の感性が多くの人と相容れないことは自覚しているけれども。
萎えるのよ。
他人の楽しみを勝手に奪うな。