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【Interlude】口止め料
人生の中で稀有なことに出逢う確率が高いことを、「引きが強い」と表現することがあるが、そういう意味では、わたしはものすごく引きが強い。
これは、かつてわたしが会社員をしていた時代の出来事である。
個人情報の特定を避けるためにフィクションを部分的に混ぜているが、概ね事実である。
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わたしは光学機器が好きだ。
アナログにもデジタルにも特別の味わいがあって、その構造には何度触れても新鮮な感動をおぼえる。
会社員時代、光学機器が好きなあまり、光学機器メーカーの技術部門ばかりを選んで勤務していた時代があった。
そういう会社には、必ず古参の社員が数人いて、もう取り扱いがなくなったアナログプロッターやジアゾ複写機、ドットプリンターなどに精通していた。
当時のわたしはそんな彼らをとてもまぶしく見ていたし、関わることは少ないながらに、とても尊敬していた。
Hさんもそんな憧れの社員の一人だった。
定年間近で口数は少なく、いつもはぼんやりしていたが、古い機器の相談が来ると、途端に目に光を宿し、魔法のようにトラブルを解決していた。
そして、Hさんは、誰が見てもわかる鬘を着用していた。
わたし個人の見解としては、男性の頭髪は清潔で似合っていれば、別にどんなスタイルでも構わないし、禿頭はむしろ知的でセクシィだとすら思うこともある。しかし、ご病気の療養中だったり、ご本人が気になるのであれば鬘の装着も別に気にはならない。
そして、当然のごとく、そのことを口に出して問うものは誰もいなかった。
みんなが暗黙の了解の中で、そういうものだ、とHさんの存在を認めていた。
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春。
会社から駅までの10分ほどの道のりは開花した桜で埋め尽くされ、その日は春の嵐で、湿った強風が盛りを迎えた桜の花びらを容赦なく散らしていた。
定時に会社を出たわたしは、前に進めないほどの強風を受けながら、必死で駅に向かって歩いていた。
そして、顔をしかめながら前を見ると、わたしより少し前に会社を出たHさんが前を歩いているのが見えた。
・・・頭を必死で押さえながら。
いや、ちょっと待って。やめて。風。だめ。それだけはだめ。
わたしの心拍数は一気に跳ね上がった。
信号待ちの間も、微妙な間隔で距離を保ちながら、Hさんから目が離せなかった。
風は、先ほどよりもさらに強まっている。
当時「自らの道徳以外は信仰しない」と傲慢な言葉を放っていたわたしが、なにとぞ彼をお守りください、と神羅万象の神に祈った。
信号が青に変わり、再びわたしたちは歩き出したが、駅の改札に向かうエスカレーターまでの500mあまりの距離を、こんなに長く感じたことがかつてあっただろうか。
しかし、わたしの祈りが通じたのか、Hさんは頭を押さえたままの姿勢で、無事にエスカレーターに乗って、駅の改札方面に消えていった。
わたしはほっと胸をなでおろし、風の影響で電車が止まってしまわないうちに、文庫本を1冊だけ買って帰ろうと、駅直結のショッピングモール内の書店(梶井基次郎が檸檬を置いたあの書店)に向かった。
そして、好きな作家の新刊を探しに文庫の書棚に行きついたわたしは、
そこでHさんに会った。
え。なんで。さっき帰ったじゃん。なんでここにいるの。
そんな心の絶叫を押し殺しながら、笑顔で「おつかれさまです。」とあいさつを交わし、お互いの目的の本を探す作業に戻った。
わたしは目的の本を見つけ、Hさんは高所の本を取るために、踏み台に上がっていた。
「お先に失礼します。」と声をかけ、レジに向かおうとしたその時。
音もなく
Hさんの鬘が
落ちた。
ファサ、って。
スローモーションみたいに。
あの何もかも奪うほどの強風に耐えたのに。
今。
わたしは目を見開いたまま、何も言葉を発することができず、その場で石像と化した。
Hさんは、ゆったりした動作で鬘を拾い上げると、軽く埃を払った後、何事もなかったようにそれを頭に乗せた。
そして、笑顔で「おつかれさま。また明日ね。」と言って、レジに向かって去っていった。
その瞬間、その場にはわたしと彼しかおらず、わたしはその歴史的な出来事の唯一の目撃者となった。
(今にして思えば、監視カメラがあったと思うけど、係の方もご覧になっていたのだろうか・・・)
そして、わたしは衝撃を受けた状態のまま文庫本を買い、電車に乗って帰宅した。
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翌朝、出社すると、わたしのデスクにはバナナが1本だけ置かれていた。
「これ、なに?」
とまわりの同僚に尋ねても、だれもそのバナナのことを知らなかった。
部署内をぐるっと見回すと、Hさんと目が合った。
彼は、ニヤッと笑うと、口の前でそっと人差し指を立てた。
・・・ああ、そうか。これは、口止め料だ。
わたしは2、3度軽くうなずくと、その場でHさんに見えるようにバナナを一気食いした。
口止め料の受領完了。
これで、契約は成立。
その後、10年以上このことは関係各所には黙って、私の胸に秘めてきたけれど、このたび嘱託期間も終了され、遠い故郷に戻られて、いよいよ悠々自適の生活に入られると聞いた。
バナナ1本の有効期限は消滅しているだろうし、もう、話しても良いですよね。Hさん。