夜明け前の決意 | 波間に揺れる導火線 #01
遠い海の果て、世界の境界と呼ばれる海域——
そこには、激しい潮流と嵐に閉ざされた“闇の通路”がある。
海賊、密貿易商、そして冒険心に突き動かされる者たちが、
数多の危険を冒してまでもこの海域を越えようとするのは何故か。
海の向こうに広がる未知の大陸、
あるいは伝説の宝を手に入れんがためか。
それとも、過去の傷を乗り越え
自分の生きる意味を見つけたいと願うからか。
幼き日に父を海賊に殺された少年リーヴァ。
海に対する恐怖と憧れを抱えながら、
彼はすべてを捨てて船に乗り込んだ。
行き着く先は栄光か、破滅か。
波間に揺れる導火線は、
果たして世界を照らす光になるのか、
それとも闇へと落ちる火種となるのか。
いま、危険に満ちた航海の幕が上がる——。
第一章 夜明け前の決意
第一節 倉庫街の闇取引
ざあああっ――と、海鳴りが朝の空気に溶けていく。水平線の向こうには、かすかに茜色を帯びた雲が浮かんでいた。潮の香りとともにひりつくような緊張感が胸を満たしていく。ここは世界の果てとも呼ばれる辺境の港町“ラゴッサ”。
のんびりした漁港にも見えるが、一部では悪名高い海賊や密貿易商たちの拠点にもなるという噂が絶えない土地でもあった。すぐそばにある、誰もが恐れる危険海域“闇の通路”への出入り口がその原因だ。
港には老朽化した倉庫がいくつも並び、その一角で十八歳の青年リーヴァが薄いシャツの袖を海風に揺らしながら、視線を水平線へ向けている。
父を幼い頃に海賊に殺された過去を持ち、それ以来、海に対しては恐怖と憎しみを抱いてきた。それでも、なぜか「海の向こうに何があるのか」を知りたいという思いだけは捨てられなかった。
両肩には革の鞄をかけ、中には少しばかりの食料と水筒、そして母がこっそり仕込んでくれた短剣が入っている。胸ポケットに忍ばせているのは、ひび割れた羅針盤――父の形見だ。
そんな彼がこの朝、倉庫の裏手で待ち受けるのは、大柄な黒マントの男・ビアージョ。密貿易や裏稼業に手を染めていると噂され、“闇の通路”を熟知しているとまで言われる人物だ。ここ数週間、リーヴァは倉庫仕事を手伝うことで彼に近づき、その秘密を買う準備をしてきた。
「本当に、そこを通るのか?」
ビアージョが低い声で問いかける。冷ややかな眼差しに射竦められながらも、リーヴァは決心を貫こうと拳を握った。
「行きたいんだ。海の先に何があるのか確かめたい。命の保証がなくても構わない」
「ほう、父親を海で亡くしたガキが、海へ飛び込むとはな。もっとも、危険はおまえの想像をはるかに超えるぞ」
鼻で笑いつつ、ビアージョはリーヴァの胸元――割れた羅針盤を一瞥する。
「いいだろう。地図の情報と、俺の船へ乗る権利をやる。だが、五十万ベルはきっちりもらうし、一度乗ったら戻るな。死んでも文句は言うなよ」
「……わかりました。何があっても、最後まで行きます」
リーヴァは切羽詰まった声で答える。ビアージョは満足げか、あるいは呆れたのか、一度鼻を鳴らすと、倉庫の奥へ彼を連れて行った。
そこには壁一面に海図や暗号めいた紙が貼られている。ビアージョがその中の一枚をはがすと、通常の航海図とはまるで違う独自のルートが描かれていた。入り組んだ線や記号は、軍や海賊でさえ踏み込みをためらう“闇の通路”への道筋を示しているという。
「これがあの場所を突破するための唯一の鍵だ。覚えそこねたら命取りだぞ」
ビアージョは低く言い放ち、リーヴァはごくりと唾を飲む。夜が明けきる前に、港の奥へ来いと告げられ、そこで一旦会話は終わる。
外に出ると、かすかに朝日が昇り始めていた。あたりの空気がわずかに温かみを帯び、彼の頬をかすめる。決して後戻りのできない旅立ちを前に、リーヴァは自分の鼓動が高鳴るのを感じていた。
第二節 ビアージョの船と女海賊エルザ
ほどなくして、倉庫街に騒がしい声が響き渡る。ビアージョの手下たちが大きな樽や箱を荷馬車に運び込んでいた。密貿易の品――それは誰もが想像する以上に危険な物かもしれない。リーヴァは作業を手伝いながら、その目で荒くれ者たちを観察する。
彼らの多くは、海賊か逃亡者か、あるいは金のためなら何でもやりそうな匂いを漂わせている。リーヴァが混じると「なんだ、こんな若造が?」と嘲るような視線を向けてくる者もいるが、ビアージョの命令であれば仕方なしに受け入れている様子だ。
そんな中、突如として鋭い声が飛んだ。
「この積み荷、本当に全部積むわけ? 船底がパンクしないといいけど」
声の主は女海賊エルザ。長い黒髪に精悍な眼差しを持つ彼女は、腰に剣と短刀を帯び、堂々とした立ち居振る舞いを見せる。リーヴァが思わず目を奪われていると、その視線に気づいたのか、エルザは冷たく言い放った。
「何見てんの? アンタがリーヴァって子ね。ビアージョに相当の金を支払って船に乗せてもらうらしいじゃない」
「……そうだけど。俺はただ、海に出たいんだ」
「へえ。腕っぷしはなさそうだけど、死にに行くつもりじゃないでしょうね?」
エルザの瞳には嘲笑とも好奇ともつかない光が宿っている。リーヴァは唇を引き結び、必死に気持ちを奮い立たせた。
「死ぬ気なんかないよ。だけど、怖くても行かずにはいられないんだ」
するとエルザは、鼻で笑いつつも少しだけ関心を示すように首を傾げた。
「大した度胸ね。いいわ。せいぜい頑張ることね、坊や。船に乗ったら仲間……というより、共犯者みたいなものよ。裏切ったら海に放り込むから」
その言葉が脅しでないことは、リーヴァにも何となくわかる。彼女の瞳には、海賊として長く生きてきた者特有の冷酷さと、どこか寂しげな影が同居しているようでもあった。
やがて、作業を急げというビアージョの怒声が飛び、クルーたちは荷を載せた馬車を押して港の奥へ向かう。リーヴァも黙々と手伝いを続けながら、エルザの動きに目を配る。彼女は手際よく積み荷を仕分け、まるで慣れた漁師が網をさばくように甲板へ運び込んでいく。
ビアージョが「メルクリオ号」と呼ぶその船は、町外れの崖下に隠れるように停泊していた。見たところ古い木造帆船で、修繕の跡が目立つ。しかし、ビアージョ曰く「ちょっとした改造で速力を上げている」そうで、普通の船とは少し違うらしい。
夜明けの空がいよいよ白み始める頃、積み込みは一通り完了し、ビアージョはクルーを集めて出港の段取りを説明する。
第三節 旅立ちの時
クルー全員を乗せ、メルクリオ号は密やかに岸を離れ始めた。まだ町が活気づく前の早朝、ラゴッサの穏やかな波止場を背に、ゆっくりと外海へ向かって進んでいく。
甲板に立つリーヴァの心臓は、どきどきと波打つ。岸辺の灯りが遠ざかるほどに、背筋を冷たい風が撫でていく。恐怖と興奮がないまぜになった感覚――これが、父を奪った海の現実なのだ。
ビアージョは頼りない様子を見せず、しっかりと舵輪を握りしめている。エルザは帆の調整やクルーへの指示を淡々とこなし、船内にはほどよい緊張感が漂っていた。
(こんな船でも危険な海域を突破できるのか?)
リーヴァは内心そう思いながらも、ひび割れた羅針盤をそっと握りしめる。たとえこの羅針盤が壊れていても、方向を示す針が微かな光を宿している限り、自分は立ち止まれない。
これまで漁師の手伝いや倉庫仕事でしか海と関わったことのない少年が、いきなり“闇の通路”を越える航海へ挑もうとしている。その無謀さを、今のリーヴァは全身で痛感しつつ、それでも一歩も後退する気はなかった。
ビアージョの低い声が聞こえる。
「いいか、今夜になったら本番だ。潮の流れが変わる一瞬の隙を突いて、あの海域を横断する。嵐が来たら一発で沈むかもしれん。覚悟はしておけ」
「わかりました」
リーヴァは震える声で返事をする。クルーたちも視線を交わして、ぎこちなく頷く。密貿易の常習者であっても、“闇の通路”は決して気軽に踏み入れられる場所ではないのだ。
荒れ狂う嵐や岩礁、あるいは海賊や軍艦との衝突――不確定要素はいくらでも思い浮かぶ。しかし、ビアージョがそこに大きな金と取引のチャンスを見出しているのも事実だ。
そして、リーヴァがそこに「自分の人生を変える鍵」を見出しているのも、また事実だった。
淡い朝日を浴びながら、メルクリオ号は徐々に沖合へと進んでいく。港町の影が小さくなり、波間には茜色に染まった光が細長く伸びていた。
(これが……“導火線”みたいだ)
リーヴァはその光景を見て、思わずそう感じる。危険な航路に足を踏み入れた自分たちが、いつ爆発してもおかしくない運命を背負っているように思えてならない。
それでも、彼はこの海に乗り出すと決めた。海賊に父を奪われた恨みも、母を置いてきた後ろめたさも、すべて胸に抱えながら先へ進む。夜明け前に固めた決意は、もう揺らぐことはないのだ。