すべては卒業するためにある
私はすべては卒業するためにあるのだと思っている。
食事は食事を卒業するため。
セックスはセックスを卒業するため。
お金はお金を卒業するため。
恋は恋を卒業するため。
人間は人間を卒業するため。
卒業とは言い換えれば執着を手放すとも言える。
最近、韓国海苔にハマっているのだが、それは韓国海苔を卒業するためである(笑)
昨日、久しぶりに美味しいものを食べたいなと思い、スーパーに出かけた。
サーモンやぶりを買って、海苔海鮮丼を作ろうと思って、鮮魚コーナーに行く。
しかし、魚を目の前にしてもどうも買うに至らない。目の前でじっと魚とにらめっこして5〜10分。
結局買わずに出て行った。
それは本当は食事に興味がないこと。
そして、興味がないのに買おうとしたのは何かしらの楽しみを外側に求めようとする心があったからだ。
別に良い。
食事を楽しむことは人生の醍醐味だから、普通はそれで良い。
しかし、私が買おうとすると、
「お前はもう食事に逃げることもできないぞ。」
と心が囁く。
もちろん、食べたい時は食べるさ。実際にそういう時もある。
だが、昨日はどうも違った。本当に食べたいわけじゃないのに、食事で人生の楽しさを得ようとしていた。
いや、安易なラクに飛びつこうとした。
ある時、弟子に「一番食べたいものは何ですか?」的なことを聞かれてこう答えた。
「空腹かなぁ。」
そう、一番の食べたいものは空腹だった。結局空腹が一番気持ちいいのだ。
食べる快と食べない不快の陰陽を超えた先。
巷では不食となっている方々もいるが、その方々はおそらくだが食に結びつく執着がそこまで強くない方が多いだろう。
それはその方々が特別と言うわけではなく、そういう個性・特性があるに過ぎないのだと思う。
食を手放したところで、他の執着があったら自分を保っていられるからね。
働くは働くを卒業するため。
学生時代、社会に出ることは厳しいと大人たちは言った。
しかし、社会に出ても別に厳しく感じたことはなかった。
どれだけ上司からボロクソ言われようが、ボコボコに殴られようが、社会は厳しいとは思わなかった。
それよりも自分の人生自体が厳しかったから。
働くことが大変なのではなく、普通に友達を作って普通に人と会話し、普通に彼女を作ることの方が大変だった。
だって、働いたらお金はもらえる。
しかし、人と普通に話すことはてんで分からない。
普通に話してるだけなのに赤面してしまう。相手の目線が気になって話が入ってこない。
感覚がズレていると言われる。
「普通にやれ」
フツウッテナニ?
今もそうだ。
普通ってなんだろう?
なんでみんな週に5日も自分の大切な時間を割いて働けるのだろう?
僕は何で働けないのだろう?
どっちがフツウなんだろう?
僕はフツウじゃなくてもいいから、僕でいたい。