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生まれる前の自分との約束
27歳の頃、「この現実は感情で創られている!!」とハッキリ分かった。
知ったではなくて、分かった。見えた、体感した。
でもその時は自分の思い込みや感情を癒せば癒すほど、どんどん現実は自分の思い通りになると思っていた。
あれから10年弱、確かに楽にはなっていった。
あんなに生きづらかったのに、あんなに苦しかったのに、あんなに不安や絶望にまみれていたのに、その時に比べれば別人レベルでクリアになった。
しかし、当初の思惑である「癒せば癒すほど現実は思い通りになる」とは似て非なるものであった。
まるで平社員が係長、係長が課長、課長が部長、部長が社長になるように、自由度は上がるようで責任があるからこそ、不自由になったような気がする。
たしかに平社員の時のように上を立てたり、自分の裁量が通じない不自由はなくなった。
しかし、責任ある立場だからこそ行動に責任が伴い、安易なことは出来なくなったことは事実。
会社を存続させるために、いろんなプロジェクトを考えないといけない努力が必要になったのも事実。
・・・・・・。
・・・・・・。
本当の意味で自分を癒していったならば、それはそれは苦しい道なのだと知り、私は到底受け入れられなかった。
今も受け入れられてない。
『なぜ私が自分を癒せてない方々の分まで癒さないといけないの?』
癒そうとする気がある方や癒したいけど難しい方々はまあいいさ。
けど、
『癒す気が全くない方、自分の人生に真摯に向き合わない方々の分までなぜやらないといけないの?』
私はどうしても納得がいかなかった。
しかも、自分が悪いのにそれを棚に上げて、感情を押し付けてくる方々。
一段落良いさ。良いんだけどさ、その方々がサボってる分までなぜ私が背負わなければいけない?
私はやっぱり受け入れられてない。
とは言いつつも、徐々に徐々に受け入れられるようにはなってきた気はする。
人は皆どんなカタチであれ、一生懸命生きてはいるとは想う。
犯罪に手を染める方々でも、怠惰に過ごす方々でも、他責思考の方々でも、皆一生懸命生きている。
その一生懸命が"今は"犯罪や怠惰や他責に向いてるだけであり、いつかはその方々も飽きてくる。
飽きてきたならば、自分に真摯に生きるしかなくなる。そういった意味で、人は皆一生懸命生きている。
ある種、私は"そういう"方々を許している。
許しているとはいえ、"そういう"生き方をした結果まで請け負うことは許してない。
だって、そういう方々が知らないところで、人知れず苦しみ、人知れず癒すなんて聖人君主みたいな生き方はまだ難しい。
とはいえ、そんな聖人君主みたいな生き方を望んでいる自分がいることも事実。
ある時、苦しくて苦しくてたまらなかった時、
『なんでこんなに苦しくても、それでも他者を愛さないといけないんだろう?』
と思った。
しかし、そこをちゃんと観た時、生まれる前の自分が情景に浮かんできて、
『あぁ...俺は愛深い存在だったわ。』
と思い出した。
こんなにも愛深い存在だったら仕方ない。
なぜか私は納得してしまった(笑)
だからこそ、生まれる前に決めてきた自分との約束を守るためにも、前に進むしかないんだなぁ。