現実狂という教え

人は何かしらを信仰して生きている。

ある人は親の教えを、ある人は学校の教えを、ある人は社会の教えを、ある人は宗教を、ある人は尊敬するメンターの教えを。

逆に何かを信仰しないで生きてる人なんていない。
だからこそ、人間にはそういう信仰する何かが必須となるのは明白だろう。


だから、何かを信仰することは悪いことではなく、むしろ良いことだと私は考えている。

親の実家がお寺で浄土真宗を、それなのに親は全く別の宗教を信仰している。

そんな親や祖父母が何かを信仰する姿を見て、私は一種の安心さえ感じてしまう。


あぁ...大丈夫だ。

と。
(日常生活に支障をきたさなければね)


そんな私が信仰しているのは、現実だ。現実教であり、現実狂である。

文字どおり、現実に狂っている。

そして、現実とは本質。本質とは心。


もし街中で私を見てくる女性がいたら間違いなく私のことが好きだろうし、スカートが短い女性がいたら、無意識に私を誘っているのだろう。
(どぶろっくみたいやな 笑)



冗談はさておき、私は現実をちゃんと観る。自分の都合のいいように観るのではなく、正しく観る。

そのためには自分の心も同時に観る必要があり、自分に言い訳や責任転嫁の心があったら、現実は正しく観れない。


だから私は、スピリチュアル界隈でよくある、

「龍の雲を見つけたから、良い運気が〜✨」

とか、

「これは現実から応援されてる」

などと、思考停止して捉えない。(失礼 笑)

もし観るなら、そう考えてしまう自分の心の背景を正しく観る。



だから例えば、私が他者から、信仰する何かを勧められるような現実に出くわすことにもちゃんと現実の意味があるし、

自分に災難が起こったり、誰かから怒られたり嫌味を言われたりすることにも全部意味がある。

ただし、女性は可愛い(何が?)



何かを信じることは良いことだ。それはたとえ正しいことであっても、間違ってることであっても、その瞬間はその人の心の支えとなる。

私は変態教を信仰してるし、他記事の通り変態である。

その自分の変態さが今の自分を支えているのだ。


仮に間違ってるものを信仰していたとしても、正しいものを信仰していたとしても、

私たちはそれ以外にも人として正しくある努力は必要である。


誠実であること、優しくあること、思いやりを持つこと、変態であること、ずるくないこと、エロいこと等々。

そういう努力をするからこそ、何かを信仰した時にその信仰が活きるのだと想う。



現実とは心であるからこそ、現実を出来るだけ曇りのない目で本気で観ると、自分の心さえも分かる。

何を欲していて、何から逃げているのか。そして、何が正しいのか。

ただし、私の目は女で曇りまくってるがな(ドヤ顔)


そんな私はやはり変態になることをオススメしたい。

いいぞ、変態狂は。

ただひたすらに1日中、机に向かう。自分に起こる現実の意味や背景、そして気になること興味あることをひたすら考える。


もちろんやりたいことはやればいい。私の場合はそういうのが無いから、机の上に釘付けになるがな。



こんな何の参考にもならない記事をここまで読んだあなたは変態の素質がある。


変態狂にようこそ。

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