
父を送る
何事もにも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コレヘトの言葉3章1節)
告別式の式次第に記された聖書の言葉は満88歳を過ぎた父の人生に、その「時」が来たことを教えてくれた。
《2021年10月16日》
父と母は結婚62周年を病院で迎えた。
このまま老夫婦二人だけで過ごし続けるのは共倒れになるから…と、退院後、父はショートステイの施設を経て、実家から車で5分の特別養護老人ホームでお世話になることに。
《2021年12月18日》
自宅に帰れずそのまま特養に入所した日、初めて居室の窓から見る景色が生まれ故郷の六口島の裏山に似ていたらしく「こりゃあえぇ、むくじに帰って来たみたいじゃ」と喜んでくれたのが嬉しかった。
それから毎日曜日には母と一緒に父の居室まで面会に通ったが、オミクロンのため2月からはSkype面会に。
《2022年2月13日》
もどかしい画面越しの会話の終わりに「また来週くるからね」との母の呼びかけに画面越しに父から投げキッス。してやったり…と悪戯っ子のように笑った父に母と二人で「お父さんったらウケ狙いの確信犯だね」と笑いながら帰った。

《2022年3月6日》
「いつも一緒に散歩に行っていた風の道に今年もヒカンザクラが咲きましたよ」とスマホで撮った写真を画面越しに母は父に見せたりしていた。

《2022年3月30日》
「今年の桜は良く咲いています。昨年パパと一緒に歩いた風の道の赤崎駅跡も満開です」今年は一人で散歩中の母から写真が私のスマホに届いた。

《2022年4月10日》
桜も散り始めた日曜日の面会時、ようやく来週から居室面会が再開される知らせを受ける。少ししんどそうだった父の様子が心配だったのでようやく直に会えると次の日曜日を心待ちにすることにした。
《2022年4月12日》
朝7時5分、施設から電話が入る。
「お母様には繋がらないので娘さんに電話をかけています。お父様の呼吸が止まっていますので、直ぐにこちらに来てください」
突然のことで、いったい何を言われたのか理解が出来なかった。
「呼吸が止まってるってどういうことですか?」
「お父様の呼吸が止まっているので、出来るだけ早く来てください」
施設の方は同じ言葉を繰り返された。
「時」が来てしまった。
急いで母を連れて施設に向かうと、まだ暖かい父に会うことができた。母と二人で何度も最後の握手をした。父の手は柔らかく優しかった。
暫くしてお医者様が来られた。
「何時にしましょうか?今の時刻で良いですかね」
診断書には死亡時刻は7時55分老衰と記載された。
お昼には父を実家に連れ帰る。
私が小学生の頃から、我が家のお葬式は母が先なら父が仏式(所謂一般的な日本人のやり方)で、父が先なら母がキリスト教式で行うことになっていた。私も中学までは教会の日曜学校に通っていたので信仰のある母の思い通りになるのは良いことだろうと思っていた。
《2022年4月13日》
近所に住んでいる親戚が次々とお別れに尋ねてきてくれる。自宅で横たわっている父との思い出話に花が咲く。
棺、骨壷、挨拶状をどうするか葬儀会社の担当と一つづつ打ち合わせる。父はまるで眠っているかのような穏やかな顔だったので湯灌はしなくても良いかな…と思ったが、「ウチは映画おくりびとの演技指導をした納棺師の会社です。自信があります。是非、お任せください」との言葉にお願いすることに。
遺影は父が小さい船を係留していた勤めていたホテルの小さい桟橋の前で私が撮ったiPhone写真を使うことに。大好きな瀬戸内のバックには瀬戸大橋も写っている。

昼には父の初孫である、上の小僧が東京から帰ってくる。夜には亭主も東京から帰ってきた。
《2022年4月14日》
昼前には京都から下の小僧がリクルートスーツで帰ってきた。2時には兄家族が東京から帰ってきた。
湯灌は3時から。プロの納棺師の手にかかると父の顔は10歳ほど若返った。おしゃれな父らしく母と二人でコーディネートした三揃いのネクタイ姿にカッコよく仕上げてもらった。ただ何か少し違和感があった。夜、家に帰ってからその違和感の正体にハタと気付く。髪型が違うのだ。父は七三分けじゃない、そうオールバックだ!これは告別式の前に直さなければ。
前夜式は7時から。牧師夫婦と家族だけで自宅で文字通りアットホームに行われた。
《2022年4月15日》
朝、実家に着くと一番に棺を開け櫛を入れ直しオールバックに髪を整えた。いつもの父の姿になったと一人満足した。長年の船の免許の数々と一緒に大好きだった大原美術館の隣にある蕎麦屋「あずみ」のマッチを父の傍らに置いた。
告別式は母が通っている教会で、子、孫、ごく近しい親族だけで今流行りの家族葬。式場の花のしつらえは白だけでなく明るくカラフルに。
11時よりオルガンの前奏に讃美歌、牧師の祈祷と式辞。涙は溢れても悲しみより感謝の想いに包まれたあたたかい告別式になった。

お骨拾いは2時10分から。母が寂しくないよう手元に置いて置ける分骨用に小さい備前焼の骨壷も用意した。父の生まれた六口島の浜にお骨を粉にして撒きたいからと残りの骨を少し分けてもらった。
火曜日の朝の父のこの「時」は正に絶妙なタイミングであった。面会が叶う次の日曜日まで待ってくれればとも思ったが、来週だと私には動かせないスケジュールが既に入っていた。出張の多い私にとって、父の死に目に遭えることが、実はここ数年の切なる願いであった。きっと父は母を一人で困らせないように私が動ける「時」を選んでくれたのだろう。もしも半日でもずれていたら、3日間も実家でゆっくりと別れの準備をすることはできなかったろう。東京にいる兄家族も娘である私の家族もこの日程でなければ全員が揃うことは難しかったろう。
前夜式の式次第に記された聖書の言葉にも救われる。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙ニ4章18節)
《2022年4月17日》
告別式2日後の日曜日、実家の牡丹が一つ咲いた。今年の開花は例年より半月も遅い。父と母が行った旅先で買い求め長年育ててきた牡丹だ。桜が散った後で母が寂しくないように「どうじゃ、今年の牡丹は見事じゃろう」と父が咲かせてくれたような気がする。

お父さん、あなたの娘に生まれて幸せでした。
今まで本当にありがとう。