デバッガーとクレーマー
2023年末現在、あるトランスジェンダーについて扱った哲学論文が不適当な査読によりリジェクトを受けた、という趣のツイートが拡散されている。
それに乗じ、ツイート者「反トランス的な偏見を哲学の言葉で正当化しようとしている」という批判がなされている。
しかし、仮にそれが真実だったとしても、それにより当該論文の哲学的価値は毀損されないだろうと思う。そして、この批判はそもそも哲学に対する批判として有効ではないと私は考える。
当記事では、「哲学においてそれがなされる動機について問題にすること」について、「デバッグ」や「クレーム」といった言葉を用いて検討する。
焦点をそこに当てているため、冒頭で話題に挙げた哲学論文、査読、ツイートに対する是非はこの文章では問題にしない。
哲学のデバッグ性
哲学という営みは、ゲーム・アプリ等のプログラミングの不具合(バグ)を発見する作業、すなわちデバッグに似ている。
我々が日常で使っている言語や概念は、不完全なことが多い。そして、不完全な言語や概念をそのまま使い続けていると、さまざまな問題や混乱が起きる。同一の宗教内で起こる、教義解釈の違いによる紛争がいい例だろう。
そういった概念上の混乱を解決することにおいて、哲学は大いに“役に立つ”。そうした曖昧な概念を整理することは、哲学の役割の一つだろうから。哲学とはそうした問題、つまり概念上の“バグ”に対し原因を特定する、デバッグ作業のように私には思える。
しばしば哲学が難解だと言われるひとつの原因は、こうした哲学のデバッグ性、あるいは哲学者のデバッガー性にあると思われる。
通常の使用方法ならば誤作動など起きようもないプログラムでも、想定できるあらゆる使用方法をテストして不具合を見つけようとするのがデバッガー、通常の使用方法ならば混乱など起きようもない概念でも、想定できるあらゆる使用方法をテストして問いを見つけようとするのが哲学者なので。どちらも他者からすれば異様なさまに見えるだろう。
なおデバッグという言葉には、バグの“発見”のみならず、バグの“修復”という工程まで含む場合があるが、当記事ではあくまでバグの“発見”に意味を限定する。バグの“修復”を指すときはバグフィックスという言葉を用いることにする。哲学はあくまでバグの修復ではなく発見の営みであろうから。※
※ただし、哲学の場合はデバッグをすることがそのままバグフィックスに繋がることがある、という特異な性質があるように思える。“バグ”を見つけるために概念を整理することがそのままバグフィックスであるようなケースが存在するはずなので。
デバッグとクレーム
この節では主題である「哲学においてそれがなされる動機について問題にすること」に踏み込む。そのために、デバッグの比喩をもう少しだけ続けさせていただきたい。
たとえば、ここに一人のクレーマーがいたとする。そのクレーマーはある企業に怨恨の念を抱いており、たいそう悪質で粘着質な人物だった。
そして、個人的な悪感情で、その企業が発売したアプリケーションのバグを見つけようとする。バグが見つかれば、その企業の信用を貶めることができるからだ。
そのアプリケーションは周到なデバッグがされていたが、そのクレーマーは執念により、いよいよ一つのバグを見つけることができた。そのバグは明らかな不具合であることが誰の目にも明らかなバグであった。そいつはケチをつけるために、企業に急いで報告をしたという。
さて、その発見されたバグが「悪質なクレーマーが見つけたバグだから」という理由でバグだと見なされないことはあるだろうか。
そういうことはあってはならないだろう。バグだと見なされない理由として有効なのは、それが想定通りの動き(=不具合でない)の場合のみである。無論、さまざまな理由でそのバグが修正されないことは往々にしてあるだろうが。※
※また、バグを「修正の必要性がある不具合」と定義する場合、そうでない不具合はバグと呼ばれないだろう。しかし「修正の必要性がある不具合」かどうかは発見されてから判断され決まるものなので、デバッグを発見の作業であるとみなす当記事にその定義はそぐわない。
なので、このクレーマーはある意味ではデバッガーでもあったことになる。ネガティブな感情が動機になったとはいえ、そのクレーマーによってバグの発見はたしかになされたのだから。
哲学にも同様のことが言えて、個人の悪感情が動機になって行われた議論だとしても、その議論が哲学的に重要な問いをえぐり出すことはありえないことではまったくない。それどころか、ありふれたことだとさえ感じる(やや軽率に物事を書くが、哲学的な思弁なんてものは何らかの強い感情がモチベーションとして無いとやっていけないのでは?)。
その上で哲学が実際のデバッグと違うのは、そもそもそれをバグとみなすかの段階でまず議論が起こることだろう。先ほどの例え話で登場した“誰の目にも明らかなバグ”なんてものは、概念の中にはほとんど無い。※
※“ほとんど無い”理由として、まず我々の使っている言語だとか概念といったものが極めて流動的で捉え方が変化しやすい、というベタな答え方がある。だがもう一つ、誰の目にも明らかなバグがある概念は過去に行われた哲学によってある程度淘汰された、というのもありそうだ。
動機に対する批判は哲学的批判にはなり得ない
この前提を踏まえると、冒頭に挙げたような「反トランス的な偏見を哲学の言葉で正当化しようとしている」というような批判は、まったく意味を哲学的になさないことになる。だって、「反トランス的な偏見を哲学の言葉で正当化しようとしてい」たって、そんなことで論文の議論の内容に何か反論ができているわけではないのだから。
これはおそらく誤解されやすいのだが、動機に対する批判は程度が低いとか、逆に高いとか、そういうことを述べたいのではない。私が述べたいことは、そもそも哲学の土俵において動機に対する批判は批判になり得ないということである。
“動機”については、批判とそれについての釈明がほとんど無限にできてしまう。そして、あらゆる議論は非道徳的な動機によってなされている可能性があり、もし仮に動機への批判が有効になると、ディスカッションは動機批判とそれについての釈明に終始してしまうので。そういう営みを哲学と呼ぶことは我々の実感とあまりにかけ離れている。
よって、動機についての批判を哲学において有効とすることは、避けられるべきであろうと思う。
こうした文脈においてウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」という言葉は、哲学における規範的主張として援用できるはずだ。