正しい夜明け/樹海の車窓から-5 #崖っぷちロックバンドHAUSNAILS
下北沢で意外とあまり入った事がなかったスーパー栄えある第一位、ピーコックストア。いつもちょっとした買い物はコンビニかオオゼキで済ませてしまうので、二階にある鬼シブな中華料理屋に一度だけジル社長に連れて行ってもらった以来だ。あれはもう、二年近く前か。
舞台の書き割りのように静かで客の存在を感じないピーコックの前に立ち竦む。当然だ、これは多分、舞台の書き割り「みたいなもの」なんだろう。
だって、今目の前にある年季の入りまくったチーズケーキみたいな色の壁に、はっきり書いてあるもん。「(C)2019 Goo〇le」って。
おれは今、インターネット上の地図のストリートビューの中にいる、らしい。
何がバグってこんな事になったのかは知らんが、その時のおれは意外にもたいそう冷静だった。何故なら、自分自身の体質上、おれ達はこんな感じの高次元ドッキリ大成功、みたいな状況にはこれまでも幾度となく遭遇してきていたからだ。今更大して動揺するまでもない。……とは言え、電波の海の狭間に放り出されてボーっとしている場合でもない。多分九野ちゃんの魔法が失敗したのだろうとは思うが、万一おれだけが時空の狭間に振り落とされ、三人は無事リアル世界の駅前ガストに辿り着きでもしていたら一大事だ。おれのエスパーは流石にネット対応じゃねえ。
さあてどうしようか、とピーコックのポップな書体の赤いロゴ看板から目を逸らした瞬間、足元で犬の鳴き声が聞こえた。思わず声のする方へ目をやると、そこには白いモッフモフの仔犬が。多分こいつは、ポメラニアンだろう。殆ど毛玉に黒いビーズをちょんちょんちょんと縫い付けただけのようなフォルムと顔をしていて、大変可愛い。よくよく見ると緑色のリボンとピンクの花のコサージュを首輪のように着けており、どこぞの飼い犬らしかった。ピンクの小さな舌を出してハッハッと息をする白い毛玉は、思わずしゃがみ込んだおれと目が合った瞬間人懐っこい素振りでもう一度ワン、と鳴いた。
生来動物好きのおれは思わず白毛玉を取り上げて、頭上に掲げて声をかけた。おお、お前何処の犬だ? なんでここにいるんだ? お前もストリートビュー育ちの犬なんか、それともおれと同じで時空の狭間に……まさかな、と思った瞬間、犬はものすごい勢いでおれに吠え掛かってきた。手足をバタバタと振り回してもがく犬。狼狽えるおれ。思わず手を放してしまいそうになるがこんなか弱い白毛玉を硬いコンクリートの上に叩きつけるわけには断じていけない。金属的な犬の吠え声に参ってしまいそうになるも、気がつくと犬のその可愛い声は徐々に野太くなっていき、遂にはなんと人間の男の声で喋りはじめたのだった。
「組長! オレだよ! オレだよぉ!!!」
人間の男の声……としては若干高めの元気な声。これは……まさか……。「九野ちゃんか!?」
「そぉだよぉ~!!!!!! オレだよぉ! 九野だよおぉ!!!!!!」
やっと気づいてくれた~! と殆ど泣き声のような悲鳴のような声で叫ぶ犬。その姿はどこからどう見ても白毛玉でしかないが、自己申告の通り、声は確かに九野ちゃんそのものだった。おれは九野ちゃん……らしき犬をとりあえず落ち着かせようと赤子のように縦抱きにして、上下にリズミカルに揺らす。ドラマーだからかその一定のテンポに落ち着いた様子の九野ちゃん(犬)を問い詰め、今おれ達が置かれているこの状況を説明させる事に成功した。
どうやらやはり九野ちゃんは瞬間移動魔法に失敗し、おれ達はスマホの中のストリートビュー画像の中に吸い込まれてしまったらしい。今視界に入っていないふたりもおそらく何処かに飛ばされており、電波の見せる幻の中をさまよっているだろう……との事だが、ところで何故ポンコツ魔法少女(♂)は犬の姿になってしまったのだろうか。
一番の疑問に対する魔法少女(犬)の回答は、驚くべきものだった。
「多分だけど、グー〇ルのアカウントに設定してあるアイコンの画像の姿になっちゃってるんだと思う……ほら、ここグー〇ルの支配下だから」
〇ーグルは荒れ地の魔女か何かなのか……?
ジブリでは『ハウルの動く城』を愛するファンタジー壱将が登場したところで、おれはふと気がつく。と言う事はまさか、おれの姿も例のアカウントのアイコンに変わってしまっていると言う事になるのか……? 急に恐ろしくなり実家で飼っている犬(名前はケルベロス)(愛称はケロちゃん)の姿になってしまった九野ちゃんを地べたに下ろすと、慌ててピーコックの隣のファミマのガラスに自身の姿を映す。そこに立っていたのは、黒髪の襟足だけを金髪に染めた、ステューシーのTシャツ姿で四角い黒縁メガネの小太りの男だった。
いつも前髪を上げているヘアバンドがない。眼鏡の形も、今はウェリントンだったはずだ。しかも、今より若干、頬が丸い。これは間違いない……確かにアイコン設定している、専門学校時代のおれの姿だ。
就活以来2キロ程痩せてイメチェンを図り、今の自分のルックスはこれでもなかなか気に入っているのでなんだか情けない気持ちになってくる。流石にピンクマッシュのジャニ顔オサレイケメンからポメラニアンへのメタモルフォーゼ程急転直下の変化はないものの、思わずガラスに映った自分の姿からそっと目を逸らしてしまった。九野ちゃんがつぶらな瞳で心配そうに見上げてくる。
「組長、だいじょぶ?」
「ちょっと吐きそうやけど大丈夫」
「毛玉吐く?」
「自分とちゃうから毛は吐かんよ」
それよりあとふたりを探さなければ。しかしおれは生憎彼奴等のアカウントのアイコンを知らない。恐る恐る九野ちゃんに問いかけると、「フジマルのやつならわかる!」と流石の回答をくれた。
「オウム! 青いの!!!!!!」
飛び跳ねながら叫ぶポメラニアンから目線を上げたその時、左肩がずしっと重たくなるのを感じたおれは、そちらの方に目をやってそのまま卒倒しそうになった。
重たくなった左肩には、サトシのピカチュウよろしく鮮やかな青い羽根をしたオウムが乗っかっていたのだった。
「いや~まさかオウムになっちまうとはなあ~」
「ええんやないの、フッちゃんお喋りやし」
「流石にやだよ、羽根抜けるし」
「オレも毛抜けた~」
種族を越えた変身を遂げてもいつも通り元気なフッちゃんと九野ちゃんが、おれの肩の上と足元でいつもの声で喋る。さっき九野ちゃんから受けた説明をフッちゃんに粗方話して聞かせると、彼は「アイコン、こないだケンジに撮ってもらったアー写にしておけば良かった」と若干頭を垂れておれの肩から数十センチ羽ばたいた。(因みにケンジは専門学生時代に知り合った、HAUSNAILS活動再開に際してアーティスト写真を撮ってくれたカメラマン志望の友人である。)
おれ達は姿が見つからないもうひとりの仲間を探して、とりあえず街へ足を踏み入れる。カルディに名も知らぬ古着屋、パリミキ、セガフレード。見慣れたいつもと同じ街並みだが、人影は一切見当たらず、見上げれば空を流れているはずの雲が静止画のように凝固している。西陽だけが時の流れを示すようにぎらぎらと橙色に輝いて、じきに夜が訪れる事を表していた。
幾原邦彦のアニメよりひとの気配がない。加えてバンド仲間がひとではない姿になってしまっている。そしておれは、数年前の垢抜けない――決して今も、垢抜けたとは言い切れないが――勘違いミュージシャンもどきの姿に戻ってしまっている。それ以外は、いつもの下北沢と何ら変わりない景色だった。
「キヨちゃんのアイコンって何だったっけ?」「知るかい」九野ちゃんの問いかけに心ここにあらずで応えると、フッちゃんがおれの頭上二十センチ程度の位置をくるくると旋回しながら唸った。
「でもマジで誰もいねーのな~。ストビューだってヒトぐらい映ってたはずだがな?」
「それはまあ、プライバシーの保護のためじゃない?」
「じゃあモザイクでもかけときゃ良いのに」
「想像してみなよ、顔面にモザがけされたニンゲンが大量に歩いてるシモキタの街」
「うわっキモ、そーゆーのペリメトロンのMVだけでいいんだけど」
イッヌの王子様とオウムの王子様のくせになんだか楽しそうなふたり(二匹?)の会話を小耳に挟みながら歩みを進める。この有様じゃあキヨスミが登場次第気配で充分気づいてやる事が出来そうだ。まあヤツも漏れなくストビューに吸い込まれていればと仮定した話ではあるが……などと考えていると、突き当たりを左に曲がった中華そば屋の前に、誰かが佇んでいる事に気がついた。まもなく九野ちゃんが足元で「あっ、なんかいる!?」と叫ぶ。
そいつはどうやらかろうじてヒト型をしているようで、こちらに背中を向けて立っている。黒い大きな日傘――よくお嬢様や金持ちのマダァムが差していそうな、この世のフリルの何パーセントを占有しているのかと疑問に思う程ふりっふりの、先っちょがひと刺せそうな感じに尖っている優雅なアレ――で身体を半分程隠したそいつは、傘と同様にふりっふりの黒いスカートの裾をひらめかせ、電車内で痴漢にでも遭おうものならその不届き者を踵で踏み殺せそうな厚底のブーツを鳴らしてくるりとこちらを振り向いた。おれはテレパスはあまり得意ではないから実際にそうだったとは言い切れないが、多分その時のおれ達はおそらく全員、同様の事を期待していただろうと思う。
(隠れアニメオタクのキヨスミがアイコンを美少女アニメ絵にでも設定していて、その美少女の姿に化けてしまったヤツがゴスロリ姿で現れたに違いない)
そしてその期待は実際、次の瞬間現実となった……おれ達三人が想像したものとは、若干違うかたちで。
「……よォ」
バツが悪そうに振り返ったゴスロリワンピース姿のキヨスミは、青い顔をしていた。
決して顔色が悪いわけではなさそうだが明らかに青い……それはそれはもう、ヤツの顔面をひと目見たフッちゃんが開口一番「いや……何? アバター……?」と十年以上前に話題になった映画のタイトルを口走ったぐらい青い顔をしたキヨスミは、何故か豪勢な金糸の龍の刺繍の入ったワンピースを着ていた。襟元にはチャイナドレスのそれのような赤い糸で出来たボタンがついていて、髪の毛――こっちも見事なかき氷ブルーハワイ味のような青である――も同じような色みの髪飾りで綺麗にお団子頭に仕上げられている。気の狂った中国のセーラームーンとセーラーマーキュリーのあいのこのような姿をしているがそのご面相は明らかにキヨスミのそれで、おれ達は暫くお互いの珍妙な姿をじろじろと眺め回し合ってしまった。
「スライム娘だ!」九野ちゃんが、おれが送り付けたやつでしょ、とキヨスミに問いかける。歩き出しながらゴスロリ異色肌ギャルは口を真一文字に引き結んで頷き、人差し指を自分の口の端に突っ込んでぐっと引っ張って見せた。ヤツの頬はたったそれだけの何気ない仕草でびろんと水まんじゅうのように伸び、実際に水まんじゅうのように、口内と向こう側の景色がうっすらと透けて見えていた。ちょっと透き通ったワンピースのルフィみたいな感じ。
キヨスミはそのアクションの後、「九野ちゃんに送ってもらった推し絵師のイラスト、アイコンに良さそうな画像が見つからなかったから適当に設定したら変えんのめんどくさくなっちゃって」とだるそうに呟いた。おれは生憎その類のやつにはあまり詳しくないのだが、後日ググったら一番上にピクシブが出てきてすべてを理解した。
「ちょっと待って日が暮れてきたんだけど日傘めっちゃ邪魔」半透明の身体にだいぶ慣れてきた様子のキヨスミが、橙と紫の混ざり合ったような空を見上げて傘を閉じた。フッちゃんが「陽が長くなったなぁ」といつものスタジオの休憩時間みたいな事を口にする。やれやれ、暢気なもんやなあ。おれは半ば呆れながらも、そろそろ言っておいた方が良さそうな事を腕の中ですっかり落ち着いてしまった九野ちゃん(犬)に耳打ちする。
「全員集まったとこで九野ちゃんよぉ、戻ろうやリアルのシモキタに」
しかし、おれの顔を見上げた九野ちゃんのつぶらな瞳はおせち料理の黒豆のようにうるうると潤み、「ぴえん」の絵文字のような表情で毛を逆立てて硬直しているようだ。毛に埋もれた小さな口がポメラニアンと言うよりはケロケロけろっぴを思わせる形状ですぼみ、「それが……」と蚊の鳴くような声を絞り出す。
「魔方陣、どうしても作動しなくなっちゃって……もしかしたらオレの姿がニンゲンじゃなくなっちゃったからかもしんない……」
マジかよ。