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御詠歌、バチ当たり
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
初出:2019年9月25日
(文字数:約1600文字)
バチ当たりと受け取られかねない事を言いますが、
長く浄土系にいた者の素朴な、
本当に素朴な疑問ですので、
どうかお腹立ちを抑えつつ、
受け止めて頂きたいと思うのです。
え。お大師様って、
人じゃん。
すみません。本当にすみません。
長く「南無阿弥陀仏」を唱えていた身としては、
それも「口に出して十回唱えないと、
極楽浄土にいる阿弥陀仏様に届かないよ」
とか教えられてきた身としては、
ただただ素朴に不思議なわけです。
御宝号が仏様でも経典でもなく、
南無大師遍照金剛
すなわち「人」である事が。
そこのところをどうかひとつ御教示頂きたい。
「人には皆、仏性があります」
ええはい、聞いた事はあります。
「そう説きますとよくあちこちで
『じゃあ俺も仏なのか』
『ガキの頃よく殴ってきた、
俺の親父も仏なのか』
『その辺で酔っ払ってる、
歯の抜けたおっさんも仏なのか』
そんな具合に訊ねられる事があるのですが、
その度に私は
『ええ。その通りです』とお答えしています。
しかしながら『人が仏に成れる』わけではない。
ここを思い違いしてはいけません。
ここを間違えて捉えた人は、
周囲の人達に対し、
自ら神仏のごとく振る舞おうとします」
ええ実例もいくつか思い浮かびますね。
「『人が仏に成れる』のではなく、
時折、ふっとした拍子に、
仏様の方から我々に近付いて下さる。
『仏心に気付かせて下さる』ものです。
残念ながらその時に、
気付けるとは限りません。
気付けたとしても、
気付いたままを実行できるとも限りません。
実行できたとしても、
その心を保ち続ける事は、
人の身にとって大変に難しい。
人が人の身のままで、
仏に成れる方法がただ一つだけあります。
お大師様はそれを我が国で、
唯一でも最初でもありませんが、
実践し現実のお姿、
形として後の世までも遺して下さった方です。
故に真言宗では『生き仏』として尊ばれています。
ぜひ一度高野山の、
奥の院までお参りに来られたら良い」
ああ行きました。
すっごく空気が心地良かったです。
「行ったんかい(←御住職つい地が出た)」
御廟橋から先の空気が、
確かに違うな軽いなとは感じたんですけど、
お大師様が今も生きていて、
目には見えないけれど橋まで迎えに来られている、
と聞かされて少なからず驚いたのです。
なぜそこまでまっすぐに信じ切れるのですか。
「わざわざ疑う必要も、
特に無いからだと思いますが」
ああ。
そうか皆さん本気で頭っから信じているというよりは、
何も否定しなくたっていいよね、
自分の目で確め切れるわけじゃないし、
って感じなのか。
(個人差はあると思いますけれども)
だったら分かるしある程度出来そうかな。
「それではこちらにも、
良い事が書かれてありますので読んでみて下さい」
と渡されたプリント。
「もっとも大切なものは、みんなタダ」
太陽の光 野や山の緑
雨や川の水 朝夕のあいさつ
神への祈り そして母の愛
いや待て「母の愛」はタダじゃねぇ!
だってそこには人がいるから。
母である前にまず人だから。
ってかなんで愛を母限定にさせる。
人に無償で働かせといて、
それを良しとしてきたところに、
日本社会における積年の歪みと、
そこに対処し切れない仏教の限界があるように、
私には思えてならないのですが、
さすがにさっきの今でその疑問は、
申し上げ切れませんでした。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
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