御詠歌、へそ曲がる
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
2025年現在、
シャンソンは中断しています。
初出:2019年9月4日
(文字数:約1400文字)
御詠歌の先生には
当時「シャンソンも習っているんですー」
と話していたのだけれど、
シャンソンの先生には、
御詠歌の話をしていなかった。
だって御詠歌の先生は、
本職が僧侶だけども
(詠監、という、
御詠歌指導の肩書きもお持ちですが)、
シャンソンの先生は、
本職がシャンソン歌手なんだもの。
同じ習い事とは言え並列に語られるのは、
人によっては気分がよろしくないかと思われてさ。
あとシャンソンを習い出したからこそ、
御詠歌にも興味を持ったという順番もある。
どうも私は性根がへそ曲がりなようで、
一人の師匠のみに付き従う気がしない。
……違うな。
一分野における師匠は、
ただ一人で良いんだけど、
同時にわりと遠い所に離れた、
別分野からの視点も欲しくなる。
この場合は、
洋楽に対する和楽。
五線譜に対する金剛流楽譜。
更には基礎知識などさらさら無い所に赴いて
「すみません何にも分かりません」
なレベルから教えてもらう事を好むので、
浄土系出身なのにも関わらず、
真言宗系を選んでいる。
今回も読経から始まるのだが、
……長い。
ああごめんなさい分かっております。
一日を始めるに当たって、
何か新しい事に臨むに際して、
初心を思い出させてくれる文言を唱え、
心を落ち着かせる事は、
重要であり私も生活の中に取り入れたいなー、
なんて思っちゃったりはしてるんですけども、
習い始めたばかりなので、
どの文句もまだ身に染みていません。
正直気に入った文言二、三行で良くない?
十字を切る、くらいの手軽さが、
(まだ比較的)若者には魅力的じゃない?
「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆倶に仏道を成ぜん」
ってこの文句は耳になじみやすくて、
今そらで言えたけども、
仏道を成じたいかどうかは、
衆生の勝手じゃない?(爆)
ぶっちゃけこんな価値観で生きている私が、
この文句だけをただ唱えても、
あんまし功徳が期待出来ないんじゃない?
合間にお請けする説法も、
「有難い」くらいまでなら大丈夫なんだけど、
「正しい」とか
「人の本来あるべき姿」とか言われると、
おいちょっと待ってくれや。
今まで知らんで生きてきた者に、
今なお接する機会が無いだけの人々に、
その言い切り方は無いやろう、
とか思ってしまう。
ええ認めます。
私はへそ曲がりでございます。
何もかも全て結局は私、
大日如来が包んで下さると思うのー。
(結局はそこに行くのかい自分)。
だから私大日如来の御真言はすぐに覚えたし、
あと前々から大好きなゾロアスター教の標語、
「善思・善語・善行」と、
「願わくは私の言動を通して、
大日如来の御心が成されますように」
という、
元はキリスト教由来の文言が、
個人的には今しっくり来てるんだけども、
これで良くない?
授業後にお茶に誘われまして、
御年八十になる御婦人が、
「登山道が違うだけで、
きっとみんな同じ山の頂上を目指しているのよ」
と呟いておられたのが随分と心に沁みた。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。