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映画『パルバティ・バウル 黄金の河を渡って』

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 その朝はやたらとリアルな悪夢を見て、
 今ここにいる自分が現実ではないような、
 別次元の自分と繋がっているような、
 奇妙だが不快ではない心持ちでいた。

(文字数:約3200文字+イラスト1枚)


   大阪では十三じゅうそうのシアターセブン、
   (第七芸術劇場と同じビル)にて、
   12月7日から20日までの公開。

   今週金曜日までという
   残り日数わずかで申し訳ないですが、
   気になった方はどうぞ。


早く着き過ぎた十三の街

  その日最初の公開時刻の、
  20分前までは、
  劇場自体に入れない。

  うろつくには十三の、
  とりわけ栄町通りの朝方は……。

  近くのマクドナルドで、
  ハッシュドポテトとコーヒーを食べて、
  時間を潰したもので、
  上映中トイレに行きたくならないか、
  ちょっと心配だった。

  館内のトイレは男女それぞれ2室。
  だけど客席数が少ないし、
  掃除は行き届いていたので、
  ちょっと安心。


「額付く」と「土下座」の違い

  バウルの何たるかと、
  パルバティ・バウルその人については、
  前回の映画である程度、
  知っておく事が出来たので、

  前回の映画についてはこちら。↓

  今回は冒頭から、
  マドゥコリ(托鉢)シーンに心打たれた。

  今のこの国で一体どれほどの人が、
  ごく日常的に「額付く」事を、
  経験し続けているだろうかと思って。

  私の二十歳頃までは日常だった。
  自分の家はもちろん、
  目にする建物全てが和だった時代の話だ。

  祖父母も両親も他所のお宅に行けば、
  まず畳に両手をついて、
  額も付けそうなほど頭を下げていたし、
  その家の人たちからも下げ返されていた。

  「土下座」とはまた違うんだよ。
  相手に屈辱を与えて得意になる行為とは、
  全くの別物なんだよ。


知る人ぞ知る甘味処

  バウルを定義的にざっくり言うと、
  歌い踊りながら練り歩き、
  托鉢を受ける修行者。

  パルバティ・バウルは求められれば、
  世界中でも公演する。

  2023年には来日して、
  寺院や那智の滝への奉納に、
  能舞台でも披露した。

  歌われるのはベンガル語なので、
  直に内容を理解する事ができない。
  字幕を見ながら聴く事で感動できる。
  以下は印象に残った歌詞の一部分。↓

ずっと探し続けている
知る人ぞ知る甘味処
アッラーとクリシュナ、ラーマにカーリー、ゴッドが、
一つの皿を分かち合う店

心に刻むCINEMA BOOK
『パルバティ・バウル 黄金の河を渡って』17p

  それは私も同様だな。
  探し続けているよな。

ああ わたしの舌よ
いつでもクリシュナ神の甘やかな名を舞い踊れ
ああ わたしの舌よ
わたしの舌 なんてことをしたの
甘露を飲まずに毒を飲んだ
わたしの舌 なんてことをしたの
甘露を飲まずに毒を飲んだ
クリシュナ行者の足の塵を飲みなさい
暗黒の時代は終わる

同上22p

  「甘露を飲まずに毒を飲む」事は、
  確かにしょっちゅうやっているのだろうな。
  そこに自覚と実感があれば、
  「暗黒の時代は終わる」で希望が持てた。


雨音が聞こえる

  大阪の能楽堂で歌っているシーンで、
  結構激しめの雨音が、
  聞こえているような気がした。

  しかし私はこれまでにも、
  実際には雨など降っておらず、
  周りの人には全く聞こえていない、
  雨音を聞いた事があるからな。

  思い返せばそれは決まって、
  葬儀や法事の最中、
  僧侶がお経を読んでいる時なんだが、

  パルバティ・バウルもちょうど、

心よ
もし死の行をするなら
ああ 生と死よ
生と死の輪廻は終わる

同上36p

  そんな歌を歌っている、
  という事は、
  「死」に関わる歌やお経が唱えられる間、
  私の耳には雨音が聞こえるのだろうか。

  上映後に阿部櫻子監督による、
  舞台挨拶とサイン会が行われる回を、
  目掛けて私も行っていて、
  事前にパンフレットも手に入れていたので、

  真っ先にサインをもらいに行って、
  「能楽堂では雨降ってましたか?」
  と訊いてみたところ、

  「ええ。そうなんですよ」
  と返された。

  なんだ。

  「パルバティが歌う時って、
   よく雨が降るんですよ。
   撮影する側としては時々困るんですが、
   本人は雨が降ると喜ぶんです」
  と話されたので、

  行者によっては雨が降るものだし、
  雨音は聞こえて良いものだと思った。

  ちなみにパルバティは女神の名前ですが、
  「滝」を意味するそうです。

  あと前回の映画に出てきた、
  パーカッショニスト土取利行さんと、
  2018年にパルバティ・バウルが共演した、
  ライブCDも売っていたので、

  買いました。
  パルバティもだけど、
  「梁塵秘抄」曲も欲しかったので。

  

盲目のバウルと私のヴィジョン

  ところで今回の映画では、
  実を言うとパルバティよりも、

  途中に10分ほどカメラが集中する、
  盲目の修行者、
  カナイ・ダス・バウルの、
  歌声と言葉を聞いている間、
  なんでか私は涙ぐみ続けていた。

  彼が語る言葉は全くのその通りだ。

  パルバティ・バウルも、
  カナイ・ダス・バウルも、
  素晴らしい行者だが、

  もちろん私ではない。
  私が彼らと同じ場所を目指して、
  彼らと共に行く事は無い。

  私の神は、
  独りを知り尽くし、
  独りで在る事を尊ぶ神だ。

  以降、
  お前ごときが偉そうに何語ってんだと、
  思われるかも分かりませんが、

  何せ私の守護霊的な存在が、
  家に帰り着くまでに語ってきた文言を、
  写し取ったものですので御容赦下さい。↓

どれほど多くの人と立ち交わろうと、
共に過ごせる楽しい時間があったとしても、
人はそれぞれに独りだ。

それは悲しい事ではなく、
まして恥ずべき事でもない。

バウルたちが探し求める、
モネルマヌシュ(心の人)の側に、
私は属している。

バウルたちと我々とは、
対等であり、
互いにためヽヽになる存在だ。

この世に肉を持ち生まれ出た私のためには、
モネルマヌシュしか存在していなかった。

そう考えると私の幼少期は、
モネルマヌシュを得るために、
なんと最適な修行の場であったことか。

「生まれてきたことを後悔している」
ずっと耳元で聞こえ続けたこの声は、
実は両親も含む先祖たちのものであり、

両親も先祖も、一族全体が、
自分たちの長きに渡る後悔を、
生まれたばかりの子孫一人に押し付けた。

それは事実だが表の側からだけ見た姿だ。

裏から見れば私は、
一族分の後悔を、
有り難くも引き取らせてもらえた事になる。
私にはそれが可能だったからだ。

貧しかろうと稼げなかろうと働きが悪かろうと、
人の目に醜かろうと汚かろうとみすぼらしかろうと、
家の中が荒れ果てていようと家族が罪を犯そうと、
人の世からはそれらについてどれほど、
責め立て嘲笑われ続けようと、

人それぞれの尊さは、
神々の目に決して損なわれない事を、
私だけが物心ついた頃から教え込まれてきた。

故に私は独りで在る事を促す。
常でなくとも時折は独りに還る事を勧める。
まさに言葉は独りで在るためにこそ適している。

その人の文章は、
その人の内からしか紡ぎ出され得ず、
人の目や口がどれほど罵り嘲笑おうと、
神々の目に決して軽んじられはしない。

独りで在ることについて、
モネルマヌシュは語る。
(この国における名を今は明かすまい。)

人それぞれの美しさの内に、
我々は居を構える。

故に、
見下されて良い者など存在しない。



おまけのアドベントカレンダー

 紙(書ける材質ならなんでも)
 ペン(最低限ジェットストリーム)
 灯り(無限に使えるって言ったよな? な?)

 その三つさえ無限なら、
 ある意味「遊んで暮らせる」自信がある。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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偏光
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