物の数にも入らない
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
本日は守護霊様というより、
朝食中ニュースを見ながら湧き出した、
私個人の思想。
(文字数:約800文字)
古代から現代に至るまで、
我が国の根底に流れている価値観は、
実はこれではないかと、
私は疑って掛かっているのだが。
曰く、
物の数にも入らない。
自らへりくだるために言う場合もあるが、
下級武士以下の名も無いとされた庶民を、
侮るためにも使われる様子を、
様々な古典文献に数多く見出せる。
物の数にも入らない存在が、
国土には常にある程度いて、
そうした存在は、
天子などの目に触れる事ももってのほか。
人にすら数えられないのだから、
如何様に扱ったとて罪悪感も覚えず、
どのような目に遭わされ野辺に屍を晒そうとも、
人々の意識にすら入らない。
肌の色でも出自でも、
言語でも男女差でも無く、
この国は、
人々の側が認識すら出来なくなるほどの、
頑強な身分差別を基盤として、
成り立った国であるように思う。
故に我が国の言語は相当な割合で、
上っ面を滑る。
人々に向けた言葉しか語らないのだから。
物の数にも入らない存在など、
意識にも乗せていないのだから。
愛情も家族も人としてのあり方も幸福も、
言葉の定義そのものが、
人々の側にしか当てはまらない。
物の数にも入らない存在は、
一集落に一人二人程度のものなのだから、
現れる都度皆の視界から追い払えばそれで済む。
「あとは どうなと きゃあなろたい」だ。
神々が存するために構成された、
価値観ではあるだろうが、
神々がさてこの状況を、
望んできたかは別問題だ。
少なくとも私自身は、
故郷における物の数にも入らない存在から、
立ち現れた。
可能な限り根底から湧き出す言葉を使いたいと望む。